Yoshi's Watercolour Diary
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  • はじめまして、知人のスライドを見に来て、
    ふとアプリからのお勧めから訪問させていただきました。

    絵柄に温かみがあり、ついつい引きこまれてしまいました。
    ジャイアントコニーやR360など自宅にあった車両がその印象のまま
    絵になっているのが嬉しかったです。

    私自身は昭和35年生まれですが、昭和3年生まれの親父が大の車好きで、
    家や出先で実車を見たことのあるものが多数描かれていて、懐かしさを感じ、
    月並みな言葉で申し訳ありませんが、癒されました。

    ぜひ親父にも見せてあげたくて、ダウンロードさせていただきました。
    これからも素晴らしい作品を描き続けてくださいませ。
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  • 1. ヨシの水彩絵日記日記など小学生の頃夏休みの宿題でいやいやつけた事があるだけの私だが、還暦を迎える頃からふと今日まで過ごしてきた自分の人生を思い返して見たくなった。子供の頃、小学生の頃、中学生の頃、大学生の頃、社会人となってからの日本での思い出、ブラジルでの思い出、ポルトガルでの思い出・・・思い出しているうちに絵を付けてみたくなり水彩日記とすることにした。プロフィール宮川芳晴 Yoshiharu Miyakawa1947年 岐阜県郡上郡八幡町出生1965年 静岡県立静岡高校卒業1969年 東京芸術大学美術学部工芸科卒業1969年 いすゞ自動車入社1971年 米国アートセンターカレッジオブデザイン留学1976年 ブラジル移住、GMブラジル入社1991年 ポルトガル移住、MM Design 設立 今日に至るE-mail yoshiharumiyakawa@gmail.com
  • 2. ジャイアント/マツダオート三輪トラック(小学校1年の頃)岐阜県郡上八幡で生まれ小学校1年を終了するまで郡上に住んでいた。両親が米屋/八百屋を営んでいたので、定かではないが幼稚園の頃には既にバーハンドルのオート三輪が家にあったような気がする。比較的はっきりした「最初の思い出」はジャイアントの丸ハンドル三輪トラック、コンドルと呼ばれ2灯ヘッドランプ、ベンチシート、水冷フラットエンジン・・・など当時としては非常に進歩的で高水準の三輪トラック、ボディーカラーはグレーだったかな?同じ頃、近所の家のガレージにはマツダのバーハンドルオート三輪が停まっていて(動いているのを見た覚えはないが・・・)友達と一緒にサドルにまたがったり荷台によじ登ったりして遊んだものだ、ブラウンとブルーのくすれた(色の褪せた)2トーンカラーボディーがなんとなく記憶に残る。
  • 3. ベイビーライラック号(小学校1年の頃)近所の文房具屋さんに少し赤味がかったブラウン&ベイジュの2トーンカラーの小柄なオートバイがあった、いつも2~3台の自転車と一緒に店前に停められていたベイビーライラック号は自転車より背が低いおもちゃみたいなキュートなバイクで、子供心にも興味を惹かれわざわざ見に行ったりした。1953年に発売されたベイビーライラック号はヘッドライトと燃料タンクを一体として重心を思い切り下げ女性でも容易に乗れるユニークで親しみ易いデザインでまとめられていた。他の一般的ないかついブラックのオートバイとは全く違った存在でチェーンの無い(シャフトドライブ)安全で進歩的な機能を備え、4サイクル90ccのエンジンを積み無免許で乗れる可愛い小型バイクとして市場で好評を呼び大ヒット作となった。
  • 4. 寒天菓子/ふ菓子/ラムネ(小学校1年の頃)学校帰りにお菓子屋さんに寄って駄菓子を買う悪い習慣がついていた、数え切れないほど多くの駄菓子の中で特に好きだったものを3つ挙げる。まずは寒天菓子、直径1センチ長さ30センチくらいのガラス管に詰まっているレッド、イエロー、グリーンの寒天ゼリーをチュルッと口に吸い込む、はっきり覚えていないが1本30銭くらいだったかな?。ふ菓子は直径5センチ長さ25センチくらいで白砂糖に覆われたピンクのおふと黒糖と呼ばれる黒褐色のおふがあったが白砂糖の方が好きだった、ふわふわシャリシャリと口当たりの軽い感じがとてもいい。分厚いグリーンのガラス瓶のラムネは栓になっているビー玉を栓抜きでポンと瓶の中に叩き落すとシューと炭酸の泡が吹き出てくる、瓶の中のビー玉をチャリチャリ音をたてながら出来るだけゆっくり飲むのが楽しみだった。
  • 5. ウィリスジープ MB/フォードGPW(小学校1年の頃)家からあまり遠くないところにある旅館「満州屋」に軍服を着た進駐軍の兵隊さんがジープに乗ってやってきた。外人さんを見るのは生まれて初めてだったが子供の好奇心というやつで恐る恐るジープに近ずくと兵隊さんはニコニコしてなにやら言いながら(英語だからわかるはずが無いのだが・・・)チューインガムを1つくれた、グリーンのチューインガムは今でもはっきり覚えている。つや消しオリーブグリーンのジープは奥目で小さなヘッドライトの旧式だったので多分ウイリスMB型だったろう。ウイリスMB/フォードGPWは第2次大戦中に高い耐久性と不整地走破性を持って生まれた軍用小型四輪駆動車で2.2リッター 4気筒エンジンを積んでいた、タフで使い易くオールマイティーな性能はその後多くのSUV、4x4ビークルの登場に大きな拍車をかけた。
  • 6. 鮎の友釣り(小学校1年の頃)父と一緒に何度か鮎釣りに行った(と言うより連れて行かれた)。郡上八幡は「水の都」と言われるように吉田川(長良川上流)が町中を流れる、清らかな水には鮎の泳いでいるのが橋の上から見えた。鮎の縄張り争いの習性を利用した「おとり釣り」で友鮎(おとり鮎、父は種鮎と呼んでいた)は鼻輪(ハナカン)をかけられ釣り糸の先につけられて泳ぎ回る、縄張りに侵入された野鮎は怒り狂って友鮎に体当たりをしてもつれ争っているうちに友鮎に仕掛けられたカケ針に引っかけるという日本独特の釣り方だ。「 タネを逃がさないようにしっかり持っとれよ・・・」と言って父が竿を持たしてくれた、太ももあたりまで水につかりながら重くて長い竿を必死に抱えていたのを思い出す。鮎は滑らかなシルバーの体にイエローの斑点が美しい。
  • 7. 小型四輪トラック オオタ号(小学校1年の頃)バーハンドルのオート三輪トラックが主流で丸ハンドルのジャイアントが珍しかった当時、近所のお菓子やさんにオオタ自動車工業という会社が生産したオオタ号という1トン積み小型四輪ボンネットトラックがあった。お菓子屋さんの息子(たかしちゃんだったかな?)は私より2~3級上級生だったと記憶するがオオタ号のキャビンや荷台によじ登って一緒によく遊んだものだ。当時オオタ号はダットサントラックと小型貨物車市場を2分するほどであった、はっきりした記憶は無いがフェンダーにヘッドライトが収まるクラシックデザインのボディーはグレー味を帯びたブルーのボディーカラーだったような気がする。
  • 8. 日産 オースチン A40サマーセット(小学校2年の頃)A40サマーセットはニッサンと英国のブリティッシュ モータース コーポレーション(BMC)のオースチンとの技術提供により日本でノックダウン生産された車で4気筒1.2リッター 42馬力のエンジンを積んでいた。その英国風クラシカルなたたずまいと剣道のお面をフロントマスクにしたようなデザインはなかなか好評を博した。当時日本の自動車業界は開発及び生産技術導入のためいすゞがイギリスのヒルマン、日野がフランスのルノー4CV・・・という風に主にヨーロッパのオートメーカーとの技術提携によるノックダウン(CKD)生産販売をしていた。オースチンA40サマーセットはよくタクシーとして使われたので私の思い出に残る、ずんぐりとして丸みを帯びたブラックのサマーセットタクシーは郡上八幡駅前(長良川鉄道越美南線)にいつも2~3台停まっていた。
  • 9. ザリガニ(小学校2年の頃)小学校2年の時、両親の仕事の都合で郡上から静岡市に引っ越してきた。郡上では見たことも無い「マッカチン」と呼ばれるアメリカザリガニを見てびっくりした。ため池、田んぼ、小川などどこにでも見られたが、腹にびっしり子をつけた雌の真っ赤なマッカチンを見つけるとうれしくなって必死に追いかけたものだ。そのうち友達からため池(堤)でのマッカチンの釣り方を覚えた。まず殿様ガエルを捕まえる、皮をむいて腹を割き腹わたがぶら下がるようにして後ろ足をタコ糸に結びつける、3~4メートル先へ投げ込む、大きなはさみで餌にかぶりついたマッカチンを手元の水中に沈めてあるタモの上まで静かに手繰り寄せて素早く掬い上げる。稲作の大敵とされたマッカチンは農薬DDTの散布で壊滅してしまった。
  • 10. 麦笛(小学校3年の頃)学校が自宅から3km 以上も離れていたので近所の小学生10人くらいがグループとなって一緒(上級生が責任者として前後につく)に通学した。通学路は最短距離を選ぶので田んぼや畑のあぜ道がかなりあった。麦畑のあぜ道を通る時、麦の穂の出始める頃(稲の田植えの始まる前だから3~4月頃と記憶するが)硬く青い穂をつまんで上方にキュッと引き抜くと黄緑色をした空洞の茎が現れる、丸い茎を5センチ程の長さにちぎり片側を舌と唇で軽くつぶして口に含みクラリネットのリードのように吹いて音を出す、それぞれの茎はプーとかピーとか音の異なる麦笛になるので10人が一緒に吹き出すと自然をバックグラウンドにした「即興子供吹奏楽」が出来上がる。「畑荒らし」なのでお百姓さんに見つからないように密かに楽しまなければならない。
  • 11. ダイハツミゼット(小学校4年の頃)我が家にテレビが入ったのは小学4年生の時だった、ちょうどその頃バーハンドルでサドルシート1人乗りの軽3輪ダイハツミゼット(DK型)が発売されまたたくまに大ヒットし軽3の代名詞とまで言われた。単気筒エンジンでキャビンは屋根と後ろが幌、ドアは無しというプリミティブなクルマだったが大村コンちゃん/佐々十郎コンビのテレビコマーシャル 「ミゼット ミゼット ミゼット・・・」 で日本中に笑いをふりまいた。ボディーのグリーン&イエロー、ブルー&イエロー(幌もイエロー)の2トーンカラーは軽快で親しみやすいイメージを与えた。2年後には2人乗り丸ハンドルでスチールキャビンのMP型に生まれ変わったがボディーには2トーンカラーは引き継がれずグレー、ブルー・・・のモノカラーとなった。
  • 12. ヤマカガシ/シマヘビ/青大将(小学校4年の頃)現在のようにコンピューターやビデオゲーム等の無い時代、子供たちの遊びと言えば野山を走り回り野生のアケビやグミの実を食べたり、昆虫や鳥を追い掛け回したりすることだった。トカゲや蛇などの爬虫類もずいぶんかわいがった(いじめた?)、一番多く捕まえたのはヤマカガシ、赤/橙/黄3色のまだら模様がきれいな蛇で茶畑のあぜ道でよく見かけた、ヤマカガシが有毒蛇とは知らず頭のすぐ下(首)をつまんでおもちゃにして遊んだものだ、幸いかまれた記憶は無い。シマヘビはヤマカガシと同じくらいよく見かけたが淡褐色に何本かの黒褐色の縞模様があるのでこの名がついたのだろう、面白半分に何度か茹でて食べたことがあるが味は何も無かったようだ。濃褐緑色の青大将は当時家の中に稀に現れたものだが父から「ねずみや害虫を食べる良い蛇だからそっとしておいてあげなさい」と言われていたので捕まえたことが無い。
  • 13. ホンダ ベンリイ号/ドリーム号(小学校4年の頃)ホンダ初の2気筒エンジンバイクで125ccがベンリイ号(C90型) 、250ccがドリーム号(C70型)。ヘッドランプ、メーター、ミラー、ショックアブソーバー・・・までがエッジの効いた角ばった四角いイメージで統一されたデザイン(「神社仏閣デザイン」と呼ばれた)は強烈に新鮮、個性的で他社のバイクデザインと一線を画していた。ブラックのボディーにブラウンのシート/グリップハンドルのコンビネーションは明るい近代的なイメージを与えるのに一役買っていた。スポーツモデルは穴あきのクロームプロテクター付きのマフラーが後ろ上方に跳ね上がるスポーティーなルックスでアピール。テレビでは「正義の味方月光仮面」が白い衣装に白ターバンと黒いサングラスのいでたちで「白いドリーム号」をかっこよく乗り回し悪者を懲らしめていた、大好きな番組でテレビにかじりついて見ていたものだ。
  • 14. クマ蝉/ツクツクホウシ/アブラ蝉/ニイニイ蝉(小学校4年の頃)クマ蝉は黒い体に透明の羽根を持つ大型蝉、シャンシャンシャンシャンと鳴くので静岡では「シャンシャン」と呼んでいた、この蝉を木に登り手ずかみで捕らえるのに大変な努力とテクニックを要した。シャンシャンシャンシャン・・・と鳴いている間に下からそっと近ずく、ジィージィー・・・と警戒の鳴き声に変わったら息を殺してジッと死んだふりをしている、ここで動くとオシッコをかけられて逃げられてしまう、シャンシャンシャンと再び鳴き始めたら下からそーっと手を伸ばしすばやく手ずかみにする、わくわくする瞬間だ。ツクツクホウシはクマ蝉をミニチュア化したように黒い体に透明の羽根を持つ小型蝉、ツクツクホウシはすばしこい蝉だがクマ蝉と同じ要領で捕らえる。アブラ蝉は茶色の羽根の中型蝉、どこにでも多く見られた蝉でジジリージジリージジリーと暑苦しく鳴く。「チーチー」と呼んでいたニイニイ蝉は羽根に雲形の模様がある小型蝉、ジィージィーと鳴くがあまり沢山いすぎて捕らえる気にもなれなかった。
  • 15. 特急こだま号(小学校5年の頃)明るいクリーム(ベージュ)&レッドの2-トンに塗られた斬新な「特急こだま号」を最初に見たのは小学校の2階の窓からだったと記憶する、今は校舎の周りに多くの建築物や住宅が立ち並び窓から電車を見ることなど思いもよらない。国鉄(JNR)最初の特急電車で東海道東京ー大阪/神戸の日帰りを可能にしたので「ビジネス特急」とも呼ばれた。室内の騒音防止が主な目的でモーターなどを前面に納めた珍しいレイアウトのボンネットタイプで運転席が高位置に設けられたユニークな電車となった。カラースキムも従来黒、茶色、ダークブルー・・・等低明度で目立たない落ち着いた色が列車カラーのスタンダードとなっていたが「こだま号」は活気的なクリーム&ダークレッドの2トーンカラーボディーにステンレスのJNRエンブレムを輝かせて登場した。日本の鉄道車両の近代化に大きな一歩を踏み出しただけでなくビジネス特急として日本人の時間のコンセプトを大きく変えた列車だ。
  • 16. 日野 ルノー 4CV(小学校5年の頃)4CVは日野とフランスのルノーとの技術提携により1953年に国産化が始まったクルマだがタクシーとして静岡の町中に多く見られるようになったのは私が五年生ぐらいのことだったと思う。当時小型タクシーといえば日産ダットサン(110/210型)と初代トヨペットコロナ(デザインが丸みを帯びていたので「ダルマコロナ」と呼ばれていた)が多く見られた、競合車とは一味異なるオリーブグリーンまたはサンドイエローのボディーカラーに塗られた4CVはリアエンジンのためリアホイールアーチ前方におしゃれなクロームグリル(エアインテーク)とリアにはスロット(エアアウトレット)の入ったエンジンルームカバーを備えていた、ダットサン、コロナとは全く異質な乾いたルノー特有のエグゾ―ストノートを振りまきながら元気に走っていた4CVタクシーがなつかしく思い出される。
  • 17. 写生大会/ピンクの牛(小学校5年の頃)小5の時、毎年校庭で行われる写生大会の思い出。その年は近くの農家から借り出した牛を校庭の真ん中につなぎ、周りを輪になって写生する大会だ。つながれた牛は普段はリヤカーを引いて農道を歩く薄茶色の牝牛だった。牛は立ったり座ったり歩いたりするので小学生にはなかなか難しい画題だが出来るだけまじめに形も色も忠実に見えるままを写生するように努力した。絵は自分でもまあまあ良く出来たと思えるほどに仕上がった。ところが翌日の入賞者発表を見てびっくり、金賞をとったのは女の子でお尻とお乳(実際の倍以上のプロポーション)を前面に大きく浮き出し後方に小さな頭がかろうじて見える超パースペクティブの効いたデフォルメ画ではないか!、校庭ではどういう見方をしてもああは見えない、色も茶色ではなくピンクにブラックの斑点ではないか!私の絵の方が明らかにうまく描けているのに銅賞はおろか佳作にも入らなかった。何であんな絵が金賞なんだ!!と1人でかなり憤慨したのを思い出す。今考えてみると彼女は他人には無い自己のユニークな創造力とカラーコントロールで堂々と金賞を獲得したのだった。
  • 18. メジロ/ウグイス(小学校6年の頃)メジロはウグイス色の体に、名のとおり目の周りにくっきりと白い輪がある。メジロ捕りはおとりのメジロを鳥籠に入れ上方四隅にトリモチを巻きつけた細い木の枝を取り付け、輪切りのみかんを鳥籠にのせてメジロが来そうな木につり下げる、野生のメジロはどこからかやってきてトリモチの巻きつけてある枝に停まる、メジロはモチの枝に停まるとクルッと回転してさかさまに宙ずりになり、自分の重みでモチから逃れる利口な鳥、他の鳥はモチの枝に停まるとばさばさとあばれまわるので羽根から体からモチにびったりと張り付いてしまう、そうなると「焼き鳥」以外の道は無い。ウグイスはメジロよりもやや茶褐色味を帯びたウグイス色、ウグイスの幼鳥を静岡では「チャッチャ」と呼ぶ、冬の間チャッチャチャッチャと鳴くのでそう呼ぶのだろう、モチにはかからない鳥なのでカスミ網を仕掛けて藪から追い出して捕らえた(カスミ網が使用禁止とは知らなかった)、ウグイスはメジロと異なり餌付けが難しくホーホケキョーと美しく鳴いてくれるまで育ったことが無かった。
  • 19. ジャイアント コニー360(中学校1年の頃)ジャイアント(愛知機械工業)というオートメーカーは小1の頃我が家にあった丸ハンドルオート3輪コンドルの影響でいつも身近に感じている存在だった。初代コニー360(AF3型)は水平対向2気筒エンジンをミッドシップ(シートの下)に搭載したボンネットスタイルの軽4輪トラックで他の軽自動車に比べタイアサイズがひとまわり大きい特異なプロポーションをしていた。タイアサイズと言えばアキツ号といういかつい2トン積のオート3輪もマツダやダイハツなど他のオート3輪に比べ大きなタイアを履いていたような気がする。コニーで記憶に残るボディーカラーはブルー&ホワイトとピンク&ホワイトの2トーンカラー、このカラーリングはコニーをややおもちゃっぽく見せているようだったが・・・
  • 20. マツダ R360クーペ(中学校1年の頃)新聞広告で島田市にあるお寺の坊さんの所有する中古のR360クーペを見つけた、電話連絡の末、早速受け取りに出かけた(静岡登録でナンバーは、い2083)。R360は空冷Vツインエンジンをリア(RR)に載む2ドア2+2シーター軽自動車で日本車として初めて「クーペ」を名乗った。我が家の一員となったブルーのR360は中古どころかかなりの大古(1960年モデル)で毎朝お湯で温めたタオルでヘッドカバーやシリンダーを暖めないとエンジンがかからなかった。なかなかかからないのでアクセルをあおり過ぎ、プラグをかぶらせてしまう事もたまたまで走り出すまでに大変な努力をしたものだ。R360は私が初めて乗り回した4輪乗用車、今はもう時効だから白状してしまうが実は無免許で乗り回していたのだ。R360は私が事故を起こした初めての車でもある、はずかしながら前方不注意で追突してフロントが大破しオシャカにしてしまった。
  • 21. ラビットスパーフロー/シルバーピジョン(中学校1年の頃)R360と共に家にはグリーンの2トーンカラーのラビットスーパーフロー(S601)があった、トルコン付きでフワフワと乗り心地の良い空気バネ、2サイクルのエンジンからは青白の煙がぼんぼん出たが柔らかい曲線でまとめられた軽快でモダンなスクーターだった。父の目をかすめて夜中によく乗り廻していたがある晩、大きな段差のマンホールの蓋に気付かず転倒して右足の爪を4枚もはがしてしまった、その夜は父にしかられる恐ろしさに何枚かの手ぬぐいで足をぐるぐる巻きにして布団にもぐりこんだがドッキンドッキンと脈を打つたびに足が痛くて眠れるものではなかった、翌朝母が病院へ連れて行ってくれた。近所の建材屋には新三菱重工のブルーのシルバーピジョンがあった、スクーター初のシャフトドライブが売り物でラビットとは正反対の直線的でいかつい力強さを漂わせていた、4サイクルエンジンなので煙も吐かず走る姿もラビットとは対照的だった。
  • 22. 彼岸花(中学校1年の頃)別名マンジュシャゲ(曼珠沙華)は初秋の彼岸の時期に花を咲かせるので彼岸花と呼ばれる。初夏に地面からいきなり花茎がニョキニョキと伸びだし30~40センチくらいになると鮮やかな炎のような朱赤の花を咲かせる, 開花時には葉が無いが花が終わると葉が出てきて冬と春を葉で過ごす、やがて葉が枯れ地表から消えてしまう(地中に潜る球根だけになる)不思議な周期を繰り返す、近所の農道や小丘にいくらでも見られた花で朱赤の花と茎の黄緑が対照的で怪しい美しさを創り出していた。有害植物とは知らず茎は片面だけポキポキと小刻みに折って首輪や腕輪を作ったり竹鉄砲の弾にしたりして遊んだリ、摘み取って家の仏壇に供えたりしたものだ。
  • 23. ホンダ スーパーカブ/スポーツカブ(中学校2年の頃)従来のスクーターとオートバイの長所をドッキングさせたコンセプトを基本とする機能的で使い易いスーパーカブが2トーンブルーのボディーにレッドのシートという斬新なカラーコンビネーション、プラスチック製の大型レッグシールド/フェンダー・・・などなど競合バイクを圧倒するニューアイデア、ニュールックで登場した、50cc原付バイクは2ストロークエンジンが主流の当時、空冷4ストロークエンジンは注目の的となった(1958年)。2年後に追加されたスポーツカブは私が14歳(この年まで14歳で原付の免許が取れたが翌年から16歳に変更された)の時父が買ってくれた最初のバイク、中古(ほとんど新車)だったがブルーのボディーにアイボリーホワイトのタンク、後方に跳ね上がるアップマフラーはめちゃくちゃカッコいいので得意になって走り回った、楽しい思い出でいっぱいのバイクだ。
  • 24. マツダ オート3輪トラック(中学校3年の頃)小学4年からずっとクラスメートだった友人の農家にブルーのマツダオート3輪トラックがあった、丸ハンドルはさほど珍しくなくなっていたがコラムシフトの新しさと水冷4気筒のエンジンの静かさにすこぶる驚いた、多分1959年発売されたT1100型だろう。当時は小型オート3輪トラック全盛時代で四輪トラックよりも小回りが効く(回転半径が小さい)メリットが大きく、狭い路地での優位性などで大いに普及した、反面3輪なので走行安定性に欠けるデメリット(カーブで転倒するなど・・・)も持っていた。日通(イエロー)とか消防車(レッド)等の特殊車両を除くとこのクルマはブルー以外に見た記憶が無い。ブルーのイメージがこれほどしっくりくるオート3輪も珍しい。
  • 25. ギンヤンマ/鬼ヤンマ/シオカラトンボ(中学校2年の頃)この頃、昆虫が大好きで将来はファーブル(ジャン・アンリ・ファーブルはアフリカ生まれの 博物学者だが著書「ファーブル昆虫記」があまりに有名な為、一般的には昆虫学者と思われている)の様な昆虫学者になりたいと思っていた。トンボでは胴の辺りが青/緑/ゴールドに輝く美しいギンヤンマが一番好きだった、大型なのでパサパサパサと翅音を立てて飛んでくる。2番目に好きだったのは鬼ヤンマ、ギンヤンマよりほんの少し大型で飛んでくる翅音はバサバサバサという感じ、体は黒&黄色の縞模様。グレー味を帯びた青灰色&黒のシオカラトンボと黄茶色&黒のムギワラトンボは同じ種類でシオカラトンボが雄、ムギワラトンボが雌だったとはちっとも知らなかった。トンボを捕らえるのはタモで追いかけるよりも「おとり釣り」の方が面白い、ギンチョッチョ(正式名は何だろう?)というこげ茶色の小型ちょうちょをさおの先の糸に生きたままつるし元気に飛ばせる、トンボが6本の足でギンチョッチョをしっかり抱え込んだところをタモですばやく掬い取るのだ。
  • 26. マツダ オート3輪トラック(中学校3年の頃)小学4年からずっとクラスメートだった友人の農家にブルーのマツダオート3輪トラックがあった、丸ハンドルはさほど珍しくなくなっていたがコラムシフトの新しさと水冷4気筒のエンジンの静かさにすこぶる驚いた、多分1959年発売されたT1100型だろう。当時は小型オート3輪トラック全盛時代で四輪トラックよりも小回りが効く(回転半径が小さい)メリットが大きく、狭い路地での優位性などで大いに普及した、反面3輪なので走行安定性に欠けるデメリット(カーブで転倒するなど・・・)も持っていた。日通(イエロー)とか消防車(レッド)等の特殊車両を除くとこのクルマはブルー以外に見た記憶が無い。ブルーのイメージがこれほどしっくりくるオート3輪も珍しい。
  • 27. アオスジアゲハ/黒アゲハ(中学校3年の頃)アオスジアゲハは日本の蝶では一番好きな蝶、黒地に鮮やかな水色の縦帯のある美しい翅で軽快にスマートに飛び廻る、真夏の暑い盛りにはアスファルトの水溜りに水を飲みに来るのをよく見かけた、花に停まって蜜を吸っている時でも常に翅を小刻みに動かしている、スピーディーなすばしこい蝶なのでなかなか捕らえ難かった(必死になって追いかけたが何度も逃げられた)。黒アゲハはふわりふわりと優雅に飛ぶ大型蝶、黒い翅の後翅に赤橙色の模様がある、カラスアゲハとの違いは後翅の赤橙色の模様が違うらしいが私はどちらも黒アゲハもしくはカラスアゲハと呼んでいた、黒アゲハはあまり警戒心が無いらしく花に停まって蜜を吸っている時などは素手で簡単に捕まえることが出来た。親指と人差し指で蝶の胴をそっと掴み羽根やら顔やら触角やら・・・の形や色をじっくり観察してから逃がしてやっていた。
  • 28. 昆虫採集(中学校3年の頃)中3の夏休みの自由課題に76種の蜂を採集して先生をびっくりさせ金賞をもらった時はファーブルに一歩近ずいたような気がしてとてもうれしかった。タモで捕らえた蜂に射されないように注意しながら(とは言うもののやっぱり時々射された)すばやく試験管(中にはアルコールを浸した脱脂綿が入れてある)に入れて窒息させる、死んでから3~4時間以内の体が柔らかいうちに胴体、翅、足・・・とかを形良く整える(時間が経つと体が硬くなり無理に動かすとバラバラと壊れてしまう)。採集した中で一番記憶に残るのはオオマルハナバチという中型蜂、富士山登山中の7合目あたりで鉢巻にしていた手ぬぐいで捕らえた蜂だ。一番怖かったのはスズメバチを捕らえた時、タモの中の大きなスズメバチはお尻の針をせわしく出し入れしながら大きな口/あごでぎしぎしとタモを食い破ろうとする、こいつに射されたら大変なので必死に試験管を被せた。
  • 29. スバル360(高校生1年の頃)通学の道筋にあるスバルディーラーのお姉さん(いくつくらい年上だったのだろうか?)に思いを寄せて学校帰りにしょっちゅうスバル360(お姉さん)を見に行った、ディーラーにはいつもベージュのスバル360がディスプレーされていてお姉さんがいつも親切にいろいろと説明してくれた。「てんとう虫」というかわいいニックネームのついた丸っこいスバル360は後方ヒンジの前開き2ドア、ストロークが大きくソフトなサスペンション(かなりフニャフニャしていたが)、リアエンジンリアドライブ(RR方式)の軽自動車で空冷2サイクルエンジン特有のパランパランパランと白青のスモークを黙々と吐きながら走っていた、1958年に発売開始され庶民の足(大衆車)として軽自動車ブームの先駆けを作り、日本のマイカー時代到来に大いに貢献したクルマでもある。
  • 30. 時計のデザイン(高校生1年の頃)県立静岡高校1年の図工の時間に「 時計をテーマの図案 」の課題が出された、サイズと度数の異なるいくつかのオーバル時計を立体的に図案化し、ポスターカラーでパステル調の柔らかいトーンに配色/着色したように記憶する。図工の故大村政夫先生の「構図と色がいいじゃないか! なかなかいいセンスだ!」の一言で人生(進路)が決まってしまった。それまでは数学と科学の得意な私は理工系の大学を目指していたのだがその日からは大村先生の御指導のもと東京芸大目指してまっしぐらとなる(いのしし年は根が単純)。芸大入試の学科は3科目しかないのでそれ以外の科目の授業は一番後ろの席で寝ているか(野球部の連中はいつも寝ているか綻びた練習用のボールを縫っているかしていた)クラスメートに代返(代わりに出席の返事をしてもらう)を頼んで図工室でデッサンをしていた(入試の実技は鉛筆デッサンと水彩画なのでとにかく一枚でも多く描くしかない)、かなりの優等生だった私はあっという間に劣等性扱いとなる、静高は進学校なので美術を志す少数派はアウトサイダーにならざるを得なかったのだ。
  • 31. アトリエ(高校生1年の頃)静岡高校の美術教師でもあり野球部の監督でもあり彫刻家(日展参与)でもあられた大村先生のアトリエで勉強をさせていただくことになった。先生のアトリエでは美大を目指す20名ほどの受験生(浪人も含む)が基礎の木炭デッサン(ベートーベンのデスマスク、キリストの大顔面、ブルータス、メジチ、アリアスなどの白い石膏像をデッサン紙上に木炭ステイックでデッサンする、紙上の木炭を消すのに食パンの柔らかい白い部分を消しゴム代わりとして使い、回りの硬いミミは食べてしまう)を始め入試に必用な鉛筆デッサン、水彩画に取り組む、アトリエでデッサンに集中している時間は何も考えない空白の時間のように思えた、徹夜でデッサンを続け朝5時半ごろ通りかかる牛乳配達さんから牛乳を買い飲みした事も今は良い思い出だ。ある時初めて裸婦のデッサン会に参加した、スケッチブックを持って1番前の席に座ったまでは良かったのだが素っ裸のモデルさんを目の前に見てドキドキオドオドしてしまい、まともにデッサンが出来なかった、私にもそういうウブな時があったのだ。
  • 32. トヨペット コロナトヨペットクラウン(高校生2年の頃)(高校生2年の頃)父が中古のコロナを手に入れた、ずんぐりむ私の思い出に強く残るクラウンは観音開きのっくりでダルマとあだ名された初代コロナで初代クラウンではなくフロントグリルがトヨはなく直線的で斬新なヨーロピアンデザインタの「T」をモチーフとする2代目(S40に生まれ変わった2代目コロナだ( 20型)、2代目は初代クラウンのクラシカルデ型)。我が家に来たのはピンクのボディーにザインの皮を一気に脱ぎ捨てモダンでニューホワイトのルーフの女性的でとてもファンシルックな魅力あふれるクルマに生まれ変わっーなやつだった(静岡登録でナンバーは らた。通学の道筋にある大きな旅館の玄関にお5824)、コラムシフトにベンチシートと客様送迎用のピカピカに磨かれたソリッドブいうレイアウト時一般的なものだが、コラムラックのクラウンがいつもフロントを道に向シフトのクルマを運転するのはこのコロナがけて誇らしげに停めてあった、ダークブルー初めてだった(これももう時効だから白状すの制服制帽に白手袋の運転手さんがこれもまるが16歳で取れた軽免許は持っていたが普た誇らしげに羽箒でクルマのほこりを落とし通免許はまだ持っていなかった)。その頃ラている姿をたびたび見かけた、私はこのクライバルのニッサン ブルーバードとの販売競ウンがとても好きだった。ほぼ同じ時期に発争の激化が進み“BC(Bluebird/売されたライバルのニッサン セドリックはCorona)戦争”などと言われた、トヨタテ目4灯(1962年にヨコ目4灯にマイタとニッサンがほぼ互角で火花を散らしていナーチェンジされた)のデザインで対抗したた時代だ。が「新鮮さ」ではクラウンの方が一段上、その後のトヨタの快進撃はこのクルマから始まったと言っても良いと思う。
  • 33. トヨペット コロナ(高校生2年の頃)父が中古のコロナを手に入れた、ずんぐりむっくりでダルマとあだ名された初代コロナではなく直線的で斬新なヨーロピアンデザインに生まれ変わった2代目コロナだ( 20型)。我が家に来たのはピンクのボディーにホワイトのルーフの女性的でとてもファンシーなやつだった(静岡登録でナンバーは ら5824)、コラムシフトにベンチシートというレイアウトは当時一般的なものだが、コラムシフトのクルマを運転するのはこのコロナが初めてだった(これももう時効だから白状するが16歳で取れた軽免許は持っていたが普通免許はまだ持っていなかった)。その頃ライバルのニッサン ブルーバードとの販売競争の激化が進み“BC(Bluebird/Corona)戦争”などと言われた、トヨタとニッサンがほぼ互角で火花を散らしていた時代だ。
  • 34. プリンス グロリア(高校生2年の頃)トヨタ クラウン、ニッサン セドリックのライバルとして1962年に発売されたグロリアは当時の国産車の中で一番豪華で優雅に感じられた。エッジラインを効かせたクロームモールドがラップラウンドするデザインは「フラットデッキスタイル」と呼ばれトヨタ、ニッサン車には見られない不思議でユニークな雰囲気を創り出していた、グロリアという重厚さを感じさせる名前もクラウンやセドリックより格が一段上の印象を与えた。国道1号線沿いに在ったプリンスディーラーショールームに通学帰りにたびたび立ち寄って眺めたものだ、カタログを家に持ち帰りエキステリア、インテリアのデザインはもとよりエンジンやサスペンションのスペックなどを調べて他車とじっくり比較して見るのがとても楽しみだった。グロリアで思い出に残るボディーカラーは明るめのグレーグリーンとクロームのモールディング。
  • 35. スバルサンバー(高校生2年の頃)高2の夏休み、クラスメートの両親の営むパン/ケーキ屋さんでこずかい稼ぎのアルバイトをやることになった、パープル味を帯びたグレーのボディーカラーのサンバーバンでパン/ケーキを配達するのが主な仕事だった、パンは大丈夫だがケーキは壊れやすいので急発進急停車の乱暴な運転は禁物だ。サンバーはスバル360のエンジンレイアウトと駆動方式(RR)を踏襲したキャブオーバースタイル軽商業車、後ろから見るとネガキャンバーのリアサスペンションが何ともキャシャでかわいらしい。キャブオーバーの軽自動車を運転するのは初めての経験で、運転席の前にはとにかく何も無い(薄い鉄板一枚のみ)のでぶつかったら一巻の終わりだろうと思った、走り出すとややフワフワして左右前後に揺れが大きく、慣れるまではひっくり返りそうで少し怖かったが2~3日で慣れてくると無理をしても結構安全に走ってくれることがわかった。スバル360と同じ2ストロークエンジンなので白青い 煙をもうもうと吐きながらパランパランズーズー と良く走った。
  • 36. ヤマハYDS/ホンダCB72(高校生2年の頃)東名高速道路は既に開通していたが名神高速道路はまだ神戸まで完全に開通していなく彦根までが開通したので友人と2人で彦根のインターチェンジまでバイクで往復することにした。友人のバイクは発売されたばかりのホンダスーパースポーツCB72,4サイクル2気筒250ccでブラックのボディーにクロームメッキのタンクの精悍なデザイン、見るからに走りそうなバイクだ。私のはヤマハスポーツYDS,2サイクル2気筒250ccでCB72同様ブラックのボディーにクロームのタンク、注目はヤマハオートルーブと呼ばれる分離給油潤滑システム(従来の2サイクルエンジンは混合油潤滑)で専用の小さなオイルタンクを備えていた、このシステムでも2サイクル特有の白青い煙は以前にも増してモウモウと撒き散らしていた。YDSはCB72と並ぶとやや丸っこく見えるデザインだ。YDSの2サイクルエンジンのトルクの強さとダッシュ時の立ち上がりの速さに魅了された記憶がもとで後に(1976年)ブラジルへ移住後に購入したモトクロスバイクもヤマハの2ストロークを選んだ。
  • 37. 日野コンテッサ900(高校生2年の頃)静岡では日野ルノー4CVに混じってコンテッサのタクシーが良く見られた。フランスのルノー4CVのライセンス生産で学んだ技術を基に4CVのレイアウトを基本的に守りながら日野が独自で開発(デザインも含む)した最初のモデルで4CV同様リアエンジンリア駆動(RR方式)の5人乗り4ドアセダン。4CVタクシーでパワー不足を指摘されていたエンジンは4CVの750cc21馬力から900cc35馬力にパワーアップされていた。リアエンジンなのでフロントにグリルの無いすっきりした2灯デザインがシンプルでとても心地よい、4CVの名残でリアエンジンをアピールするおしゃれなサイドエアインテークが何ともカッコいい、特別な理由はないのだがどこかにイタリアンデザインを匂わせるこのクルマがとても好きだった。コンテッサ900で最も記憶に残るボディーカラーはクリーム系のベージュ。
  • 38. 東海道新幹線開通(高校生2年の頃)東京オリンピックが開催されたこの年(1964年)10月に新幹線が開業した。世はまさにスピードアップ時代、東京―新大阪間を最高時速200kmプラスで走る12両編成の 「 夢の超特急」は清潔なアイボリーホワイト&ブルーの新幹線イメージで颯爽と現れた。超特急ひかりと特急こだま(各駅停車)の2本立て。開通して間もない頃こだま(ひかりは静岡に停まらない)で東京に出かけた時、静岡駅のプラットホームで「こだま」を待っていると「ひかり」がとんでもないスピードで通過した、シュルシュルパシパシと送電線とパンタグラフの擦れ合うすごい音を発しながらアッという間に行ってしまった「わっすげえ~」と思わず叫んでしまった、すごい勢いで回転する車輪と線路の出すドドドドッという音とプラットホームへの振動も新しい経験だった。そういえば東京駅で発車の ベルが鳴っている発射寸前の新幹線に飛び乗りドアが閉まり「滑り込みセーフ」と喜んだのもつかの間、なんとこれがひかりだったので静岡で降りられず名古屋まで行ってしまい、こだまで静岡に戻るというオッチョコチョイも今になれば良い思い出だ。
  • 39. フォード マスタング(高校生3年の頃)愛称「ポニーカー」として大人気を得たマスタング(野生馬)は日本人にとって「自由な大国アメリカ」を象徴する開放的で夢のようなスポーツカーだった。初代はハードトップとコンバーティブルの二本立てでグリルに「ギャロッピング・ホース」を輝かして1964年に発売され、翌年ファストバックが追加された。ヤング層にも入手可能なようにベース価格を低く設定し、豊富なオプションが選べる「パーソナルチョイスコンセプト(フルチョイスシステム)」が大ヒットした。私があこがれたアメ車の第1号車でグレー味を帯びたライトブルーのハードトップが記憶に残る。残念なことに2代目、3代目とモデルチェンジを重ねるごとに肥大化、ハイパワー化が進みデザインの魅力無さも手伝って4代目で生産中止になってしまった。2005年に再生した現行車は5代目で、「夢よもう一度」とばかり初代デザインをそのまま踏襲し最新の技術で仕立て直したレトロモダンなクルマ。
  • 40. 湘南電車(高校生3年の頃)芸大目指してデッサンに明け暮れしていた私は毎月1回東京に住む先輩に1ヶ月の間描いたデッサン、鉛筆画、水彩画の批評をしてもらうために東京を往復した、その時一番多く利用したのがグリーンの車両にオレンジの窓周りのカラーリングの湘南電車だ。国鉄東海道線の湘南地区を走り始めた(1950年)ので通称「湘南電車」と呼ばれるようになったという。高3の夏休みは上石神井にある芸大男子寮の先輩の部屋に1週間程もぐりこみ、寮の屋根裏の石膏デッサン室で鉛筆デッサンをさせてもらった、夜になると毎晩何人かの先輩がデッサン室に現れて親切に批評したり指導したりして励ましていただいたうれしい思い出がある、ある先輩は「お前、芸大に入ったら空手部に入れ!」と言う、「はい、入ります」と言ってしまったので入学後は空手部に入部した(させられた?)。あの時、寮の食堂のおばさんに大盛りのご飯を朝晩食べさせてもらったことが忘れられない、おばさんありがとう!
  • 41. 長次郎(高校生3年の頃)夏休みで帰静した美大の先輩(アトリエの先輩)が「長次郎の黒楽を造る、お前も一緒に造れ」ということで生まれて始めて陶芸をやることになった。長次郎は陶芸「楽家」の初代で代表作には千利休好みの黒楽茶碗、赤楽茶碗がある。長次郎は茶の千利休の「侘びとさび」を陶芸で表現しようとした、ロクロを使わない(手とへらのみ)人間味のある素朴な手ずくり造形で優美な茶碗を創作した一人者。私は当時長次郎など聞いたことも無く全く無知識のまま先輩の「長次郎はロクロなんか使わなかったんだぞ・・・」とか言う指導のもとに土をひねりまわし形の見せかけが長次郎まがいに出来た茶碗を黒っぽく焼き上げてもらい、「ウン、なかなか渋くていい黒楽が出来た」などと一人で勝手に喜んでいた。デッサンという2次元表現に没頭していた時期、「土いじり」という3次元表現はその後のデッサンに良い影響を与えてくれたことだろう。
  • 42. 国電-山手/中央/京浜東北/総武線(大学生の4年間)大学の4年間(1965-1969年)国電には本当にお世話になった。東京での最初の下宿は三田で一番近い国電の駅は田町駅だった、三田の下宿は4畳半の畳と小さな押入れのみで他に何も無かった。写真(撮影/現像/焼付け)をやり始め「水」を使う為、台所付きの下宿が必要になり予算の関係で下町の下宿を物色して小松川に見つけることが出来た。 小松川四丁目からの通学は総武線で平井駅から秋葉原駅まで行き山手線もしくは京浜東北線に乗り換え上野駅まで行った。まるで子供のようだが1両目の運転席のすぐ後ろで電車が線路の上を走っていくのを見るのが好きだった、電車が停車位置の30センチ以内に停まらないときは「へたくそな運ちゃんだ」と呟いたりしたものだ。国電は同じ車両(実際は2車種で新車種が山手線、山手線で使われなくなった旧車両を他の線で使うらしい)を山手線はライトグリーン(ウグイス)、中央線はコーラルオレンジ、京浜東北線はライトブルー、総武線はイエロー(カナリア)でカラーが各線のアイデンティティーという大切な役目を担う。
  • 43. アサヒペンタックスSP/ニコンF(大学生1年の頃)写真に大変興味を持ち、カメラ購入にあたりニコン、ペンタックス、キャノン、ミノルタ、オリンパス・・・等いろいろな機種を調べ比べてみた。本当はニコンFが欲しかったのだが標準レンズ付のボディーだけでなく広角28mm(F3.5)、105mm(F2.8)、望遠200mm(F4.0)3本の交換レンズも同時購入となるとニコンFは値段が高すぎて手が出なかったのでブラックボディーのペンタックスSPを購入した。ペンタックスSPは1964年に発売された世界初のTTL(Through The Lens)測光式が話題の一眼レフカメラ、しばらく使ってみてペンタックスで正解だと思った、とにかく軽くて使い易いし何よりも「ピント合わせ」が簡単だった。下宿の台所付4畳半は夜になると雨戸を閉めてそのまま暗室に早変り、当時はまだ白黒の時代なので自分の好みに合わせて柔らかい写真、硬い写真、コントラストの強い写真、弱い写真・・・などなど自由に焼き上げる最高に楽しい瞬間だ。
  • 44. 繧繝彩色(大学生1年の頃)芸大初年度のカルキュラムに古美術研究の一環として繧繝彩色(ウンゲンサイシキ)がある。インドに始まり中国を経て日本には奈良時代に伝わったと言われる仏教美術彩色法で同系色の色彩の濃淡を段階的(グラーデーション)に彩色して立体感を造りだす手法。授業では日本の絵の具、胡粉(ゴフン)、にかわ、顔料、丸筆・・・などを使ってお寺の唐草模様天井画を精密にコピーするのが課題。すでに粉状になっている何色かの顔料を上野の画材屋さんで購入し、にかわを入れ火で暖めながら絵の具を一色一色作る、小皿の中の暖かい絵の具は薬指(5本の指の中で最も敏感でデリケートな指)で粉がねっとりと滑らかになるのを確かめる、下地一面(下層)に塗る白の胡粉(貝殻を焼いて粉にしたもの)も顔料と同様ににかわで溶いて使う、白い紙になぜわざわざ白い下地を塗るのだろうと言う疑問がわいたが紙の白はやがて変色するが貝殻の白はいつまでも鮮やかな白を保つという説明を聞いて納得、自然から学んだ古代人の知識はすごいと思った。
  • 45. 三菱360ライトバン(大学生2年の頃)学友と2人で2週間程京都の寺回りをするのが主目的で学友の実家長野の篠ノ井からグリーンの三菱360ライトバンに乗って長野―京都の旅に出たことがある。1961年に発売された三菱360は三菱初の軽自動車で後ろヒンジの前開き2ドアの4人乗り商業車、リアシートを倒しキャンプ用品と2本のギターを積み込み有料道路をなるべく避けて旧道をのんびり走っていった。「箱根の山は天下の険」と歌われるのは本当だった、2ストローク空冷2気筒のエンジンは箱根の上がり坂を一気に登りきることが出来ず2回ほどオーバーヒートで停まってしまった、そういうハプニングも予想して、ギターをちゃんと2本積んで来たのだ! 当時ブームを起こしていたPPMやボブ・デュランのフォークソングを2人で歌いながらエンジンの冷えるのを待つものなかなか粋なものだった。京都の木仏像でひときわ魅力に惹かれたのは広隆寺の弥勒菩薩、飛鳥時代の半跏思惟像で台座に腰掛け右足を左膝に乗せ右手の指を頬に寄せて微笑む、あの素朴な暖かさと静けさは木彫のなせるわざだろう。
  • 46. マツダ コスモスポーツスバル1000(大学生2年の頃)スバルから面白い車が出た、最初に見かけた初代コスモスポーツを路上で初めて見かけたシルバーのスバル1000は何か平べったくのは通学中, 山手線の国電を降りて上野駅公て地を這って走るような印象を受けた。大ヒ園口に出た時だった、この年(1967年)ットした軽自動車スバル360のRR方式発売されたばかりのホワイトのコスモスポー(リアエンジン リアドライブ)から正反対のツが駅前の路上にロータリーエンジンの静かFF方式(フロントエンジン フロントドライな排気音を響かせながら誰かを待っている様ブ)に宗旨替えしたこのクルマは国産乗用車だった。とにかく平べったく車高が低く、葉初の水平対向4気筒エンジン(ボクサーエン巻のように細長いスポーティーなボディーはジン)を積んでいた。ボクサーエンジンは今他の日本車とはかけ離れてカッコいい。初めでも続くスバルの誇るアイデンティティ-とて 聞くロータリーエンジン音と排気音に聞きなっている。トヨタ 、ニッサン 、マツ耳をたてながら走り去るまでずっと見とれてダ・・・等がまだFF方式を持たない時代でいた。その1年前の第13回全日本自動車シスバル1000は国産車初の本格的FF車とョーの会場で市販前の生産型が展示されたのして大きくアピールし、日本はもとより全世を見た時、その斬新でオリジナリティーの強界の小型車のFF化に大きな影響を与えた。いデザインがすっかり気に入ってしまっていトヨタ カローラ、ニッサン サニー等のライたのだ。今やロータリーエンジンは「ロータバルとは全く異なるフィーリングの排気音はリーのマツダ」としてマツダの代名詞となっ軽快でスポーティーな走りっぷりを象徴してているが、発売当時のコスモスポーツは世界いた、4ドアセダンに1年遅れ(1967初のロータリーエンジン(有名な10A型年)で登場した2ドアスポーツセダンは私の491ccx2)をフロントミッドシップに大好きな車の1台だ。積む量産車として大きな話題をまいた。
  • 47. スバル1000(大学生2年の頃)スバルから面白い車が出た、最初に見かけたシルバーのスバル1000は何か平べったくて地を這って走るような印象を受けた。大ヒットした軽自動車スバル360のRR方式(リアエンジン リアドライブ)から正反対のFF方式(フロントエンジン フロントドライブ)に宗旨替えしたこのクルマは国産乗用車初の水平対向4気筒エンジン(ボクサーエンジン)を積んでいた。ボクサーエンジンは今でも続くスバルの誇るアイデンティティ-となっている。トヨタ 、ニッサン 、マツダ・・・等がまだFF方式を持たない時代でスバル1000は国産車初の本格的FF車として大きくアピールし、日本はもとより全世界の小型車のFF化に大きな影響を与えた。トヨタ カローラ、ニッサン サニー等のライバルとは全く異なるフィーリングの排気音は軽快でスポーティーな走りっぷりを象徴していた、4ドアセダンに1年遅れ(1967年)で登場した2ドアスポーツセダンは私の大好きな車の1台だ。
  • 48. 白いクラウン(大学生3年の頃)「白いク~~~ラウン」のキャッチフレーズで颯爽と登場した3代目(S50型)クラウン、クルマの宣伝にカラーがキャンペーンのキャッチフレーズとして使われたのは日本では始めてのことだろう、素晴らしく「新鮮な出来事」として記憶に残る。当時プリンスグロリア、ニッサン セドリック・・・等、クラウンクラスの乗用車は公用/社用車として使われることが多く、黒のボディーカラーのショファードリブンカーイメージが強く浸透していた、3代目クラウンはそのイメージを一掃すべくオーナードリブン高級セダンのイメージとして清潔で新鮮なホワイトを全面的にアピールするキャンペーンを打った、「白いクラウン, ハイライフセダン」とオーナーカーへの脱皮を計ったキャンペーンが大当たり、高級感あふれるデザインとホワイトが素晴らしいマッチを見せたクラウンは大ヒット作となりライバルを大きく引き離すことになった。
  • 49. おしるこ(大学生3年の頃)みたらしだんごを食べに入った下宿の近くのお饅頭屋さんで、お店で遊んでいた小学六年生の息子さんの家庭教師をやることになってしまった(なぜそうなったか未だにわからない)。算数、国語、理科、社会・・・全科目の面倒を見るのだが小6の算数の問題を解くのは予想以上に難しく私自身が息子さんより真剣になってしまうことがたびたびあった(そういう時は国語か社会の本を読ませて時間を稼ぐ)、XY方式であらかじめ答えを出しておき、それを小6の子供にわかるようにツルカメ算方式で教えなければならない(当時XY方式は小学校では教えなかった)。家庭教師そのものはまずまず無事にこなせたのだが最初の日の授業後、こんがり焼けた焼餅が2つ入った大どんぶりのおしるこを出された、「お好きですか?」と聞かれてうっかり「大好物です」と答えてしまったので授業後は毎回毎回大どんぶりのおしるこを食べるハメになってしまった、がんばって食べた後のお茶がなんとおいしかったことか、いやまいったまいった。
  • 50. いすゞ117クーペ(大学生4年の頃)イタリアのカロッツェリア ギア社のジウジャーロのデザインによる美しい4シーター2ドアクーペで1968年に発売された。流れるように優雅なボディーラインもさることながら通称「ナギナタ」と呼ばれたヘアライン仕上げのステンレスウインドーガーニッシュや唐獅子をあしらったフロントグリルなどがオリジナルなデザインエレメントとしてその優雅さにインテグレートした。大学卒業後入社したいすゞ自動車のデザイン部(当時デザイン課)は藤沢工場内にあった、117クーペの生産ラインではボディーとウインドーガーニッシュを始めとするオーナメント類がクラフトに近い手加工過程でゆっくりと丁寧に生産されていくのを見て驚いてしまった、まさに手造りの「走る芸術品」。グリーンに塗られたエレガントな117クーペは他の国産車をそばに寄せ付けぬほどスポーティーで美しかった。
  • 51. トヨペット コロナマークⅡ(大学生4年の頃)東京のあるホテルの中庭で催された初代マークⅡの新車発表会をクルマキチガイの学友と連れ立って見に行った。コロナ路線の延長モデルという意味で正式にはトヨペット コロナマークⅡと呼ばれた。従来のコロナよりひとまわり大きくなったボディーは高級感も増してずっと立派に見えた。発売当初「テーマカラー」としてアピールしたイエローはそれ以前には見られなかったすこぶる明るい新鮮なソフトイエローでマークⅡのニューカマーイメージアピールに一役買っていた。4灯ヘッドランプを備える精悍なフロントエンドは「イーグルマスク」と呼ばれるスポーティーなルックスで、イーグルマスクの下で45度下向けにスラントした大きめなターンシグナルがクロームバンパーに反射して(意図的に反射させる造形マジック)とてもモダンでカッコ良かったのを思い出す。
  • 52. ホンダ N360(1969年)1969年4月いすゞ自動車に入社した、神奈川県戸塚の男子寮からデザイン部門のある長後の藤沢工場までの足としてソリッドホワイトのN360T(ツーリング)を購入した(自分のお金で手に入れた記念すべきクルマ)。N360は発売された1967年から「これがイイ!」と目をつけていた車だったので購入には何のためらいも無かった、「Nサン」とか「Nコロ」とかの愛称で呼ばれるN360は空冷4ストローク2気筒31馬力エンジンが標準だが私のは1968年に追加されたTモデルのツインキャブ付で36馬力にパワーアップされ、最高速120km/hは当時の軽自動車としては大変な速さだった。購入直後、近所の修理屋さんでフロントサスペンションのコイルをひとまわり切り取ってもらいジェットコースターみたいにゴツゴツの走りになったNコロにレカロのフォグランプを取り付けてジムカーナの真似事をやったのも楽しい思い出だ。イラストは私のNコロでライセンスナンバーは「8横浜ぬ39-15」。
  • 53. ジャギュア Eタイプ(1969年)入社当時、アメリカ自動車業界全盛期で、華々しさとカッコ良さに溢れ未来を感じさせる「アメリカン カーデザイン」にすっかり心を奪われていたので真面目で地味な「ヨーロピアン カーデザイン」は見落としがちであった。そんな中でくっきりと記憶に残るヨーロピアンスポーツカーがブリティッシュレーシンググリーンに塗られたジャギュア Eタイプ! 1961年に発売され、素晴らしいスタイリングとリーズナブルな価格でたちまち大ヒットとなった。恐ろしく強調されたロングノーズ/ショートデッキの流麗なスポーツカーで3.8リッターの直6エンジン(1964年に4.2リッターが追加された)を載み、クーペとロードスターの2モデルが用意された。1968年以降、Eタイプのメイン市場であるアメリカの安全基準に対応する為、バンパー、グリル、灯器類・・・などが大型化され、オリジナルデザインのシンプルで均整の取れた美しさがスポイルされてしまったのが残念だ。60年代を代表するのブリティシュスポーツカーとしてその後のスポーツカーデザインに大きな影響を及ぼしたクルマでもある。
  • 54. ホンダCB750FOUR(1969年)近じか結婚するという同期入社の友人が「結婚したらもう買う機会も無いだろうからチョンガー(独身)のうちに買うんだ」とか言って発売されたばかりのCB750FOURを購入した。「ナナハン」の愛称で呼ばれるCB750は空冷並列4気筒ビッグエンジンと量産バイク初のフロントディスクブレーキ、4本スポーツエキゾーストマフラー・・・等で大迫力!まさにバイクの王様にふさわしい貫禄だ、彼はグリーンタンクのやつを選んだ、翌年めでたく結婚したがナナハンは手放さない「しっかり者」だった。アメリカでも大ヒットとなり「King of The Road」のハーレーダビットソンを真っ青にさせたという話が残る。私はCBシリーズの中では「4into1」の集合マフラーとレーサー風の長めのタンクで1974年に登場したCB400Fがたまらなく好きだ、とくにレッドタンクのやつが良い。
  • 55. 前2軸トラック(1969年)いすゞにはトラックがメシより好きで入社してくるおかしな仲間がいた、週末は国道一号線の歩道橋の上で一日中トラックやバスのディーゼル排気音を聞きながら胸いっぱい排気ガスを吸い込むのが好き?というおかしなやつだ。彼は「トラックはデカイほどカッコいい、特に前2軸はトラックの醍醐味だ、ちょっとうるさいけどいすゞV10ディーゼルエンジンは世界一だ」と言う。トラックの車軸の構造は全輪数x駆動輪数で表示されるのでいすゞ前2軸トラックの正式表示は「6x2前2軸」となる。前2軸は回転半径が大きくなる短所はあるものの直進安定性と乗り心地が良いのでカーゴ車、タンクローリー車などの重量級大型トラックの長距離、高速輸送に本領を発揮する。ライバルの日野、三菱ふそうの大型トラックにも見られたがいすゞの前2軸が彼の言うとおり一番迫力があった。彼の影響か?私もその頃からトラックやバスに興味を持ち始めた。
  • 56. ディーノ(1969年)この頃日本ではレースが注目を浴びていて「日本グランプリ」、「日本CAN-AM」でトヨタ7、ニッサン382等のワークスマシーンが火花を散らしていた、いすゞもベレットR6、R7(真四角な造形なので「四畳半」と呼ばれた)のワークスマシン2台でトヨタ、ニッサンに立ち向かっていた。R6,R7の開発は藤沢工場内で行われプロトタイプのモデリングにはデザインスタッフが携わった、ある時ワークスチームのレーサーがモデリング中のプロトタイプをチェックしにデザイン部を訪れた、そのとき乗ってきたのがディーノだった。ディーノはエンツォ フェラーリが若くして世を去った愛息ディーノの名を冠したフェラーリ最初のV6スモールフェラーリでブランシングホースのエンブレムを付けない唯一のフェラーリ。工場内の道路をそろそろと運転させてもらっただけなのだがすっかり魅了されてしまったのがイエローのディーノだった。他のフェラーリすべてのモデルはレッドがフェラーリらしくて良いのだがディーノだけはイエローが記憶から消えない。
  • 57. BMW 1600-2(1970年)デザイン部門では「乗り比べ市場リサーチ」とか何とか理由をつけて外国車も含めたいろいろな車を何台か連ねて一般道をドライブに出かけることがあった。ドライブ終了後のミーティングで参加者全員が感想/意見を出し合えるよう何十キロか走ったら車を取り替えて連れ出したクルマ全車をドライブするようにアレンジされている。1970年の春の「乗り比べリサーチ」で連れ出した国産車/外国車の中で最も印象に残ったのはBMW 1600-2、多分1968年モデルだと思うのだが今では定かでない。ペールグリーン(うす草色)の2ドアスポーティーセダン、2灯ヘッドランプとBMWアイデンティティーのキドニーグリルのフロントはまがいも無いドイツ車だ。公道を生まれて初めて運転したドイツ車なので非常に興味深く、うきうきしながらハンドルを握った記憶が今も残る。
  • 58. いすゞベレットMX(1970年)1969年の東京モーターショーに出展されたメタリックオレンジのベレットMXは当時提携中のイタリア ギア社のデザイナー トムチャーダーのデザインを忠実にモデル化したミッドシップスポーツショーカー。ギア社から送られてきたチャーダーのオリジナルレンダリング(イラスト)はカラーキャンソン紙に色鉛筆とグアッシュで彩色してからホワイトのハイライトを効かせる「ハイライト描法」で描かれていた。翌年の東京モーターショーには基本的なエッジデザインをキープしながら生産に向けてリデザインされたソリッドホワイトのベレットMX-02へと発展したプロトタイプを出展した。私のデザイナーとしての初仕事はMX-02のMXエンブレムのデザインだった、Mはミッドシップ、Xは将来車/試作車を意味する。エンブレムはボディーのエッジデザインにあわせてシャープなイメージのクローム字体(アウトライン)の中をMはレッド、Xはグリーンの配色の「七宝焼き」仕上げとした。ベレットMXは残念ながら生産にこぎつけることがなかった。
  • 59. ボーイング747ジャンボ(1970年)私は「クルマ/バイク少年」で「飛行機少年」ではなかったので飛行機には大して興味を持たなかったがジャンボが初めて羽田空港に来るというのでジャジャ馬根性で友人と見に出かけた。ジャンボは愛称で正式名ボーイング747という超大型旅客機、1970年6月に東京羽田国際空港に初めて姿を現した。空港階上のテラスではジャンボの大きな機体の無事着陸に思わず大拍手が起こった。4基ジェットエンジンの堂々とした機体はジェット旅客機としては初の2階建て客室を持つ、とにかくでっかいのにびっくり、鯨みたいだと思った。ボーイング707やダグラスDC-8などの150~200人の乗客数がいきなり350~450人の2倍以上になったのだから驚いてしまうのも当然だ。「鶴のマーク」を尾翼につけた日本航空のジャンボ機就航は羽田―ホノルル線から始まった。
  • 60. 歌舞伎/隅取り(1970年)米軍駐留兵として神奈川県の座間米軍基地(通称座間キャンプ)内にあるポール夫妻のお宅で毎週木曜日の夜、英会話を教えてもらっていた。日本人はキャンプ内立ち入り禁止なのでポールさんにキャンプのゲートまで車で迎えに来てもらわなければ入ることが出来ない、キャンプ内はアメリカなのだ!ポールさんは陸軍音楽隊のバスーン奏者、奥さんは看護婦さん,日本の文化と美術に大変興味があると言うご夫婦からある時英会話の中で歌舞伎が話題にあがった、日本特有の動き、表現,極彩色の派手な色合い・・・衣装のきらびやさも凄いけど「顔のグラフィック」がまた凄い、なぜああいうメークアップをするのか?と聞かれた。私自身知らない事だったので来週までのホームワークにしてもらい、調べ上げた歌舞伎特有の顔衣装「隈取リ」について白、赤、茶、青の4色が有ること、電燈の無い時代薄暗いろうそくの炎の下での歌舞伎は役者の表情が遠くからでもわかるように衣装も顔化粧も誇張表現になった事・・・等、へたくそな英語で説明してあげた。
  • 61. フォード マベリック(1970年)この年の末、アートセンター(ACCD)留学でロスアンゼルスに渡り、留学期間中のトランスポーターとして先輩から譲り受けたのがフォード マベリックだった。1968年式のマベリックで直6エンジンに3速のオートマティックトランスミッションが付いていた、当時流行りの「モノクロマティックカラーコンセプト」でボディーカラーもインテリアもオールレッド、アメ車の雰囲気満点だ。アートセンターのトランスポテーションデザイン教師キース ・ティーター先生がフォード在籍時代にデザインされたそうだ。初めて乗るアメ車、オートマティック車、先日まで日本でサスペンションを硬くしたコチコチのホンダN360に乗っていたのでフワフワフニャフニャ感覚のマベリックにしばらくとまどう。私のマベリックは高速道路で少しスピードを上げるとドライブシャフトとデフがゴトゴトと音を立てて不安(いつ壊れるかわからない)なのでクラスメートに聞いたら「少しぐらい音がするのはフツーだから気にしなくて大丈夫!」 と気楽な返事、とは言われても気になるのであまりスピードを上げないように心がけていた。
  • 62. アートセンタースクール(1971年)1965年にアートセンタースクールとして開校したアートセンターカレッジ・オブ・デザイン(ACCD)は現在パサディナに立派な校舎を構えるが‘70年代初めはロスアンゼルスの3rd ストリートに面した幼稚園みたいな小さなかわいらしいい校舎で入口のドアーがアートセンターのシンボルカラー「オレンジ」に塗られていた。アドバタイジングデザイン、グラフィックデザイン、プロダクトデザイン、ファッションイラストレーション、ペインティング、フォトグラフ、フィルム…と幅広いカルキュラムの総合的なアートスクールだが、特にトランスポテーションデザインはアメリカのビッグ3(GM/フォード/クライスラー)の援助、そしてトランスポテーションクラスへのプロジェクト提供、ビッグ3インハウスカーデザイナーのプロフェッショナルなオリエンテーション・・・等してオートモーティブデザイナーの育成に寄与したスクールとして世界的に知られる。ヨチヨチ歩きの日本のオートメーカーはデザイナーをアートセンターに留学させて、最先端を走っていたアメリカンスタイルのデザインワーク習得/吸収に躍起になっていた時代だ、私もそのうちの1人。
  • 63. ポルシェ 911(1971年)当時、日本ではあまり見かけなかった911(ナインイレブン)がロスアンゼルスではよく見かけられ、ビバリーヒルやサンセットブルバードにはごろごろいた。開発コードナンバーそのままの901型として1964年に空冷水平対向6気筒2リッターエンジンをリアに積んでデビューした、ポルシェは356の頃から憧れのクルマの1台だったので通りかかる911を1台1台見やりながらやっぱり欲しいといつも思ってしまうのだった、空冷のあのパサパサしたエグゾ―ストノートが何とも言えない。911は1974年にアメリカの保安基準に従った5マイルバンパーを装着したアンバランスなビッグバンパーモデルになってしまうが法律だから仕方が無い。911は基本的なイメージ/スタイリングはキープしながらも改良、発展を続け性能、居住性、信頼性共に高い完成度を得て現在に至っているが私が本当に好きなポルシェはビックバンパーになる前の小ぶりな1972年型911なのだ。
  • 64. ポルシェ356(1971年)ロスアンゼルスでは911に混じり憧れの356が時折走りすぎて行く、リッチな国アメリカ、開放的なカリフォルニアにはオープンの356がお似合いだ、サンセットブルバードのカフェバーの前にパークしていたリアにゴールドのスーパー90のエンブレムが付くスレートグレーの1600 S 90はヨダレが出るほど美しかった。リアエンジン車として知られる356の試作第1号車は以外にもミッドシップにエンジンを積んでいた(試作第2号車からリアエンジンレイアウトとなった)。ポルシェ初の量産車となる356は1948年に発売された。「エデンの東」、「ジャイアント」・・・などの映画で有名なジェームス ディーンは愛車ポルシェ3561500スピードスターで数々のレースに参加していた。356スピードスターから本格的なレースカーでアルミボディーの550スパイダー(1955年式)に乗り換えたディーンはロスアンゼルスから550スパイダーでサンタナのレース場に向かう途中交通事故で命を落としてしまった。
  • 65. シボレー カマロ(1971年)アートセンターのクラスメートが初代シボレー カマロ1969年型に乗っていた、グリーンのボディーにホワイトのストタイプが入ったスポーツモデルで後輪に大きな太いタイアを履いたマッスルカー、エンジンも少しチューンアップしてあるそうで、発進時はいつも激しく後輪を鳴らしていた。カマロはマスタングと並び1960年代に起きた「ポニーカーブーム」の代表的なクルマでマスタングの大成功に遅れまじと3年後の1967年にハードトップとコンバーティブル2本立で発売された。マスタング同様手ごろな価格でスポーティーなカマロは大ヒットしSS,Z28などパワフルでマッスルなモデルも追加しマスタングと共に「マッスルポニーカー」という新しいジャンルを築き上げた。ロスアンゼルス滞在中に見たアメ車の中で一番カッコいいと思ったのはこのカマロSSだった。
  • 66. ダットサン 240Z(1971年)もともと日本よりはアメリカ市場を主眼に置いて開発されたダットサン240Z(日本名ニッサン フェアレディー)はロングノーズショートデッキのファストスバックタイルでハッチバックを備えていた。240Zはアメリカでは「Zカー(ジーカー)」の愛称で親しまれ、その名が示すように2.4リッターの直6エンジンを積んでいた。スポーツカーとしては驚くほど低価格(当時4000ドルを割っていた)で程々に高性能なZカーはアメリカ市場で「ポルシェよりナウでカッコいい」と言う声を耳にするほど爆発的な人気を呼んだ。アメ車全盛で日本車など目にもかけない時代だったのでDATSUNをDODGEと思い違いしている人が結構いた(多くのアメリカ人がソニーのテレビはアメリカ製と思い込んでいた程日本の知名度が低かった時代だ)。ホワイト、ブルー、ブラック、グリーン・・・いろいろなボディーカラーのZカーを見かけたがカルフォルニアではオレンジのZカーが一番スポーティーに見えた。
  • 67. ランボルギーニ ミウーラP400(1971年)ある週末、アートセンタのトランスポテーションデザイン教師ストローサー・ マックミン先生(元GMデザイナー)に連れて行っていただいたオレンジカウンティーに在るカニンガムミュージアムでランボルギーニ ミウーラに出会ったのはショッキングな出来事だった。ミウーラはスーパースポーツカーとして私の一番好きな車なのだ、ウーンウーンとため息をつきながらソリッドオレンジに塗られたミウーラの周りを何回廻ったことだろう。地面にベタッと貼りついている姿はクルマというより猛獣を見ているようでその迫力に圧倒されてしまう。ミウーラは1966年に発売された2シーターミッドシップエンジンのスポーツクーペで流麗で力感あふれるデザインは当時ベルトーネのデザイナー マルチェロ・ガンディーニによる、ポップアップヘッドライトまわりの「マツゲグリル」が獰猛なスーパースポーツカーにやさしさと親しみを感じさせる。
  • 68. フォルクスワーゲン バン(1971年)1960年代後期から1970年代初頭にかけてヒッピーたけなわのカルフォルニアではフォルクスワーゲンバン(バス)のエキステリアをサイケデリックでポップアートの模様やカラーで飾り、インテリアをリビングルーム風に絨毯でおおい、マリファナの匂いの漂うヒッピー空間を造り上げた「フラワーチルドレンバン/ヒッピーバン」が多く見られた、彼らにとってホテル代わりで好きな時に好きな所へ移動できる安価な自由で幸せな空間なのだ。正式モデル名フォルクスワーゲンT1はアメリカでは通称「VW バス(ビィーダブリューバス)」として親しまれている。フラワーチルドレンバンとして利用されるVWバスは殆どがジャンクヤードから拾ってきてドレスアップしたような古いモデルでパステルカラーの2トーンボディーカラー、フロントに大きなVWエンブレムがスタンプしてあるやつだ、タイアはたいてい磨り減って溝がほとんど無い「再生タイア」。LOVE&PEACE!!!!
  • 69. ハーレーダビッドソン チョッパー(1971年)ヒッピーたけなわの1969年、ピーター・フォンダ、デニス・ホッパー主演の「イージーライダー」が放映された、麻薬密輸(メキシコからのコカイン)で儲けた大金をチョッパーのタンクに隠し、カルフォルニアからニューオリンズへマリファナを吸いながら、保守的なアメリカに反抗して自由を求める旅に出る、2人で楽しげにチョッパーをライダー中、近ずいてきたトラックからいきなり銃撃されて殺されてしまうという衝撃的なラストシーン。それが「真の自由」を求める若者への「保守的なアメリカ」の答えだった・・・というストーリー。「イージーライダー」はその頃すでに湧き上がっていたチョッパー熱に火をかけ、1971年のロスアンゼルスでは好みに合わせていろいろなオリジナルデザイン&カラーで創り上げられた多くのハーレーダビットソン チョッパー「自由とカッコ良さの象徴」がドドドド・・・と腹に響く大排気量2気筒エンジン特有の「ハーレーサウンド」を撒き散らしながらのんびりと走り回っていた。
  • 70. トライアンフ TR4ロータス エラン(1971年)(1971年)前記のパークミ-ティングにはロータ スエラロスアンゼルス郊外の公園には週末になるとン、MG、「かに目」のオースチンヒーレー車好きな連中が愛車に乗って集まってくる、などのブリティッシュライトウエートスポー年に何回かのスペシャルイベントデーともなツカーが集まってくるがそれらの中で私が1るとコルベット、カマロ、マスタング、チャ番好きなのはトライアンフ TR4だ。トライージャー・・・等のアメリカンマッスルカーアンフのTR(トライアンフ ロードスターのはもちろんのこと、フェラーリ、ランボルギ頭文字)シリーズはTR2からTR8までのーニ、ポルシェ、ジャギュア・・・等のヨー7シリーズ(TR1は世に出なかった)。前ロピアンスパースポーツカーに混じり懐かしモデルのTR2/いブリティッシュライトウェートスポーツカTR3はMGやオースチンのクラシカルな優ー達も見られる。ロータスエランはこの公園しさが漂いトライアンフとしてのオリジナリでのミーティングの常連の1台でグリーン、ティーを欠いているように思えた。TR4はレッド、ホワイトのエランが何台かパークす1961年、MGB、オースチンヒーレー3る。F-1を始めとするレーシング/モーター000をダイレクトコンペティターとして、スポーツ界で天才振りを発揮したコーリン チミケロッティデザインの個性溢れるダイナミャップマンが1962年に発売開始した2ドックな「イタリアンブリティッシュ」ライトアロードスター(後にクーペ/2+2が加わウエイトスポーツカーとして生まれ変わっる)。ユニークな鋼板製のY字型バックボーた。大きめなヘッドライトとダイナミックなンフレームに軽量なFRP製ボディーを組みグリルが精悍なイメージを与える。TR4に合わせ、レトラクタブル(格納式)ヘッドラは伝統的なブリティッシュグリーンがアメリイトで前面の空気抵抗を抑えるスマートなスカで好評と聞くが私はレッドのほうが明るくタイリングのエランは高性能なエンジン、快力強くてこの車の性格に合っているように思適な走りとハンドリング、手ごろな価格で大える。TRシリーズはTR4がピークで、以成功を納め、その後のライトウエートスポー後TR8までの4モデルはいずれもデザインツカーのお手本となった。的にも商業的にも成功するには至らなかった。
  • 71. トライアンフ TR4(1971年)前記のパークミ-ティングにはロータ スエラン、MG、「かに目」のオースチンヒーレーなどのブリティッシュライトウエートスポーツカーが集まってくるがそれらの中で私が1番好きなのはトライアンフ TR4だ。トライアンフのTR(トライアンフ ロードスターの頭文字)シリーズはTR2からTR8までの7シリーズ(TR1は世に出なかった)。前モデルのTR2/TR3はMGやオースチンのクラシカルな優しさが漂いトライアンフとしてのオリジナリティーを欠いているように思えた。TR4は1961年、MGB、オースチンヒーレー3000をダイレクトコンペティターとして、ミケロッティデザインの個性溢れるダイナミックな「イタリアンブリティッシュ」ライトウエイトスポーツカーとして生まれ変わった。大きめなヘッドライトとダイナミックなグリルが精悍なイメージを与える。TR4には伝統的なブリティッシュグリーンがアメリカで好評と聞くが私はレッドのほうが明るく力強くてこの車の性格に合っているように思える。TRシリーズはTR4がピークで、以後TR8までの4モデルはいずれもデザイン的にも商業的にも成功するには至らなかった。
  • 72. カンナムレース(1971年)CAN-AM(CANADIAN-AMERICANCHALLENGE CUP)は1966年に開始され、カナダとアメリカで開催されていたビックマシーンプロトタイプレース。1971年シーズンはマクラーレンの独壇場で「イエローオレンジ旋風」を巻き起こしていた。昨年はマクラーレンM8D-シボレーを駆るデニス ハルムがチャンピオンに輝き、私がリバーサイドレース場に出かけたこの年はピーターレブソンがM8F-シボレーでチャンピオンシップを獲得した、風戸裕がカーナンバー88のレッドのマシン(シボレーエンジンを積むローラT222)で挑戦し堂々10位に入ったのもこの年だ。元トヨタワークスチームドライバーの鮒子田氏、大坪氏と知り合ったのもこの年、両氏はCAN-AM参戦の下準備(参戦用のクルマ、スポンサー・・・)にロスアンゼルスに来ておられた。リバーサイドレース場はビッグイベントの無い週末はファミリームードの草レースが行われていたのでそれに参加する友人に付いて時々訪れた親しみのあるレース場だ。
  • 73. ダッジ コロネット(1971年)アートセンターのセメスター休みに日本人学友と3人でニューヨークまでドライブしようという事になった、どうせならアメリカの醍醐味を味わえるビッグステーションワゴンが良いと話がまとまりフルサイズのダッジステーションワゴン コルネットをレンタルした、ライトブルーメタリックのうすらデカイやつで、もちろんV8エンジン。ロスアンゼルスを北上、サンフランシスコ、シカゴ、デトロイトを経由しカナダに入った。ちょうど私がトロントからモントリオール目指してえんえんと続くまっすぐなハイウェーをドライブしていた時の事だ、どこに隠れていたのだろう?いきなり現れたおまわりさんに止められた、怖い顔をして「外に出て前輪のタイアの臭いを嗅げ!」と言う、嗅いでみたらタイアのこげている臭いだ、かなりのオーバースピードで長時間走っていたから今にも煙が出そうな状態だった、「アイアムソーリー、アイアムソーリー」を連発してどうにか許してもらった。空からヘリコプターでスピードチェックをしたのだそうだ、なるほどヘリコプターが飛んでいる、なんと大陸的なことか!それからしばらくは「上を向いて走ろう!」が合言葉・・・・。
  • 74. ポルシェ 914(1971年)昨年発売されたばかりの914が早くもロスアンゼルスでちらほら見られるようになった。、最初に見かけたのが明るいグリーン(アマガエル色)の914だったが、その四角いたたずまいは私のポルシェイメージから遠く離れたものでいささかがっかりした思い出がある。914/6はポルシェとフォルクスワーゲンが共同で開発した最初のミッドシップマウントエンジン2シータースポーツカーでレトラクタブルヘッドライトを備える、1.7リットルのフラット4エンジンを積む914と2リットルエンジンを積む914/6の2モデルが用意された。フォルクスワーゲンのパーツを多用して価格を下げた914は「ワーゲンポルシェ」とも呼ばれピュアなポルシェイメージは最初から無かった。ポルシェは若者向けエントリーモデルとしてラインアップに加えたのだが「プアマンズポルシェ」のイメージが付きまとった。914は911の素晴らしさを再認識させるために生まれたモデルであったような気がする、ポルシェが将来の方向(方針)に迷いを抱いていた時代だ。
  • 75. 結婚式(1972年)ロスアンゼルスで知り合ったイダリナさん(ポルトガルの人でUCLAでフランス語の修士課程を取得するために滞米していた)を日本へさらっていくことになった。当時私はいすゞ自動車の戸塚男子寮に住んでいたのだがまさか男子寮に連れていくわけにもいかずアートセンターでクラスメートだった森江さん(後に武蔵野美術大学教授)の田園調布のお宅に1ヶ月ほど居候させていただく事になった。彼女はロスアンゼルスの日本領事館で日本人と結婚するためのスペシャルビザで渡航したので3ヶ月以内に結婚しないと強制送還されてしまう、幸い近所に「カトリック田園調布教会」があったので早速そこで結婚式を挙げる事になった。彼女はカトリック信者だが私は無信教、とりあえず「仮の洗礼」を受けるためオランダ人の牧師さんから聖書の「聖パウロの手紙(エフェソ5章21~33節)」、「キリストの言葉(ヨハネによる福音5章12~17節)」などを教えていただく・・・なかなか良い教えだ。結婚式は英語でやったので私の両親は何がなんだかわからなかっただろう・・・とにかく無事結婚出来た。
  • 76. 理奈ちゃん誕生(1973年)外人さんと結婚すると時々予期せぬことが起こる、長女出産の時は血液型の問題が起こった。神奈川県の南林間に住んでいたので大和市の大和病院で出産する事になった、血液型は嫁さんがO型、私がB型なのは知っていた、ヨメさんはすでに入院していた出産予定日前日、院長さんから私に呼び出しがかかった、ヨメさんの血液型がRHマイナスなので産まれ出る子供が黄疸症状を起こす可能性があるという、その時は数時間以内にすべての血液を取り替えなければならないので了解の書類にサインをしてくれと言う、サインをしてから本屋へ走り血液に関する本を買いRHマイナスについて調べてみた。日本人には0.005%以下しか存在しない珍しい血液で特にO型は他の血液型(A,B,AB)を受け取る事は出来ないので「要注意!」とある、いささかショック!、無事誕生を祈るのみだ。大和病院では初めてのケースとかで出産には2人の医師と6人もの看護婦が付き添ってくれた、幸い理奈ちゃんは私と同じBプラスの血液型で血液取替えの必要も無く元気に産まれてきた、理奈の名はヨメさんイダリナのリナをもらった。
  • 77. いすゞ ベレットGT(1973年)子供が生まれリアスペースが必要になったのでホンダN360からいすゞべレットGTに乗り換えた。「べレG」の愛称で呼ばれたベレットGTは日本で始めて「GT(グランツリスモ)」の名を冠した2ドアスポーツクーペで1964年にべレット1600GTとして登場した。イタリアンスポーツカーを髣髴させるスポーティーなボディースタイルは「和製アルファ」などとも言われ、後輪のネガキャンバースウイングアクセルやルーフアンテナに目を見晴らさせた。私が手に入れたソリッドホワイトの「ベレG」は1970年式(3年落ちの中古車)のツインキャブ付1800モデル、SUツインキャブはなかなか神経質で気持ちよく走るのには常にキャブレターの微調整(アイドリング状態で2本のエグゾーストパイプから出る排気煙の量と色が均等になるように)が必要だった。あの頃は夜中におまわりさんの目を盗んで1人で国道246号線をとばすのが楽しくて仕方がなかった。
  • 78. ポルトガル料理(1973年)味の素から味の素の月刊誌「マイファミリー」の「世界の家庭料理を尋ねて」の項でポルトガル料理を紹介したいから・・・という電話が入った、ポルトガル領事館を通してヨメさんのことを知ったと言う。そこで我が家で「ポルトガル料理の晩」をやることになり、ヨメさんは大張り切りで新鮮な海産物と野菜をメインに使ってポルトガルの代表的なディッシュをいくつか料理した。メインゲストにはニュースキャスターの入江徳郎さんがいらして「マイファミリー」誌へのコメントをされていた。その時のメニューは; *アペレティーボ(各種野菜のピクルス)*アロース・デ・ブラガ(炊き込みご飯)*カルディラーダ(魚と貝の煮込み)*カマロン・グレリャード(エビのレモン焼き)*サルディーニャ・アサ―ダ(いわしのオリーブオイル焼)*バカリャウ・コジード(タラと野菜の煮物)*サラーダ・デ・レグーメス(野菜とエビのサラダ)*クレム・ド・オーボス(卵のプディング)*アロース・ドーセ(スイートライス)*パン・デ・ロー(カステラ)・・・ドリンクはもちろんポルトガルワイン。
  • 79. マセラティ メラク1974年)いすゞは1971年GM(米国ジェネラルモータース)と提携関係を結んだのでデザイン部もデトロイトのGMテクセンター(デザインセンターもテクニカルセンターに含まれる)との交流が始まり、GM流(アメリカ流)のデザイン開発プロセス/テクニックを学ぶ事になった。その一環として私もテクセンターに派遣された、デトロイト空港にはシボレースタジオのチーフデザイナー ジェリー・パーマーさんがダークブルーのマセラティ メラクで出迎えてくれた。パーマーさんはいすゞ-GM提携直後いすゞデザインを訪れGM流のスケッチング、レンダリング、フルサイズテープドローウィング、クレイモデルワークなどの手ほどきをして下さった最初のGMデザイナーで滞日中の京都/大阪巡り、「東京面白いとこ歩き?」等には私がお供をした。メラクはシトロエンSM用の3リッターV6を搭載した2ドア2+2シーターミッドシップスポーツクーペ。マセラティーではシャープなエッジイメージでまとまったこのクルマが一番好きだ。その後3ヶ月ほどパーマーさんのシボレースタジオでGM流のデザインワークをしっかり勉強させてもらった。
  • 80. シボレー コルベット(1974年)テクセンターでの初日、パーマーさんから「滞在中のクルマは何にするか?」と聞かれる、迷わず「コルベット」と答えた私、それじゃあすぐ取りに行こうということでテクセンター内にあるカーパークでシルバーのコルベットを受け取った、これから3ヶ月間お付き合いしてくれる車だ。遠くでもカッコいいけど近くで見るともっとカッコいい、エッジの効いたフェンダーやウエストラインを見せる大迫力のコルベットはまさにアメリカを象徴する。1953年に発売された初代C-1から常に「アメリカンスポーツカー」の代表として君臨してきたコルベットはこのモデルがC-3と呼ばれる3代目になる。走り出すとV8エンジン特有のボコボコボコボコ・・・とゆったりした力強い排気音にすっかり参ってしまった。日本ではベレGでタコメーターとにらめっこしながらコキコキとマニュアルチェンジでとばすのが楽しいのだがコルベットに乗ってみるとアメリカでは大排気量のオートマティック車をボコボコとのんびり流す走り方の方がむしろ楽しく思えてくる、環境とはおかしなものだ。
  • 81. 初代シボレーコルベツト(1974年)コルベット(3代目C-3)に乗っているとまるでコルベットクラブのメンバーになった様な気分でデトロイトの街を走る他のコルベットがみんな仲間のように親しく思える。中にはクラクションを鳴らしたり窓から手を振って微笑んでくれるコルベットオーナーもいる。時々見かけるオシャレなレッドとホワイトの2トーンカラー(サイドのえぐりがホワイト)の初代コルベットはクロームメッキでギンギラギンに豪華さをアピールする「これぞアメリカン」を主張する2シーターオープンスポーツカー。まるで絵に描いたようなクラシカルなドリームカーがドロドロと低いV8エンジンサウンドをたてながら街を走っている。ヨーロピアンスポーツカーの「軽量」、「走り」、「簡素」、「タイト」に比べ、アメリカンスポーツカーのコルベットは「スタイリング」、「豊かさ」、「豪華」、「ゆったり」の性格を持つプレステージカーとも言える。初代C-1は6気筒エンジン、2灯式ヘッドライトで登場し、後に8気筒エンジン、4灯式ヘッドライトとなった。コルベットはアメリカンスポーツカーの歴史を開き常にアメリカンマッスルスポーツカーの頂点に君臨してきた。
  • 82. インディー500レース(1974年)シボレースタジオに滞在中、ボスのパーマーさんからインディー500レースのピットパスをいただくという幸運に恵まれた、当時シボレーV8エンジンがいくつかのレーシングチームに使われていたのでシボレーにピットパスの招待があるのだそうだ。インディー500はインディアナ州スピードウェイ市(市の名前が「スピードウェイ!」なのだ)インディアナレース場で毎年5月の第4週に開催されるレースで2.5マイルのオーバルコースを200周する。1971年に1度見ているのでこれが2回目となる、1971年はカーナンバー1のアル アンサーが1970年に引き続き2年連続優勝を果たした。デトロイトからインデイアナポリスまではGMCキャンパーで1人で出かけた、キャンパーはもちろんホテル代わりにもなるし食料やビールをたっぷり積んで行けるのも理由の一つだが大きなキャンパーで広大なアメリカ大陸をのんびり走ってみたいと思ったのが一番の理由。ピットで目のあたりに見るインディーマシーンの迫力とV8ビッグエンジンが吐き出す凄まじいバリバリバリ・・・の轟音にすっかり興奮してしまった。レースはイエローオレンジのマクラーレンM16を繰るカーナンバー3のジョニー ラザフォードが優勝した。
  • 83. フィギュアエイトレース(1974年)GMテクセンター滞在中、ビュイックスタジオのチーフデザイナー ディック・ルジンさんのお誘いで土曜日の夜開催される「フィギュアエイトレース」を見に出かけた。フィギュアエイトは文字どうり「8」の字なので、レースコースには平面交差がある・・・という事は当然「ぶつかる」ことが前提のとんでもないレースだ。交差点に差し掛かったクルマはお互いに「やつが止まるさ!」と歯を食いしばってアクセルを踏み込む度胸比べの生き残りレース。やっぱりアメリカだね~、キチガイレースだね~と度肝をぬかれてしまった。当然けが人が出るので交差点には救急車と消防車が待機している、ドライバーはガソリンスタンドに働く人だとか車の修理屋さんだとかイレズミの人が多いのだという、レースカーはジャンクヤードから出てきた様な‘50年代、’60年代のオンボロ車が大半でこれなら悔いなくぶつかりあえるというわけだ。ボンボンぶつかるので目が離せない面白いレースだが出場するのはお断りだと思った。
  • 84. エリカちゃん誕生(1974年)デトロイト滞在中のこの年7月に次女エリカがブラジルのリオデジャネイロで生まれた。ヨメさんイダリナの両親がポルトガルからブラジルのリオデジャネイロに移住していたからだ。ヨメさんは「2人目は両親のもとで出産したい(長女理奈は神奈川県大和市で生まれた)」という希望で長女を連れてリオデジャネイロに帰っていた。そこでデトロイト滞在の終了した9月に彼女達を連れ帰るのとヨメさんの両親に初めて会う(両親にも会わず勝手に結婚していたので・・・)のを目的にブラジルに出かけた、リオデジャネイロの強烈な太陽光、どぎついカラーとそのカラーコンビネーションの家屋、ブルーパールの大きな蝶、ピンクのクルマ・・・デザイナーという職業上、色彩感覚にはかなりの自信を持っていたのだがリオデジャネイロで見た自然や家屋や服装・・・強烈なカラーと補色も干渉もへったくれも無い自由なコンビネーションに私の常識的な(日本人的な?)色彩感覚はズタズタに引き裂かれてしまい大変なショックを受けた。
  • 85. サンバスクール(1974年)カーニバルは復活祭から40日前に開催されるキリスト経のお祭り。世界的に有名なリオのカーニバルはサンバドロモと呼ばれる専用道路で毎年エスコーラ・ダ・サンバ(サンバスクール)が競い合う。メストレ・サラ(男性)とポルタ・バンデイラ(女性)カップル(大抵は黒人か黒人のハーフ)が各々のエスコーラの大旗を掲げながら誇らしげにサンバを披露する、カップルはサンバスクールを代表する大変な名誉なのだ。かつてマンゲイラと並んで2大サンバスクールだったポルテラを夜の練習時間に訪ねてみた、当時サンパウロには多くの日本人(日系ブラジル人も含む)が住んでいたがリオデジャネイロには数えるほどしかいなかったので珍しがられ何人かの黒人に声をかけられた、まだポルトガル語がまるきりわからなかったので日本人特有の「お世辞笑い」でニコニコしていた。ちなみにサンバスクールのアイデンティティカラーはポルテラがブルー&ホワイト、マンゲイラがグリーン&ピンク、ベイジャフロールがブルー&ホワイト、サルゲイロがレッド&ホワイト。しかしブラジルの女性は何であんなにリズミカルでセクシーにお尻が振れるのだろうか?
  • 86. シボレー シェベット(1974年)ブラジルで生産/販売されるGM車はすべてシボレーブランドとなる。シボレーシェベットはGM初のワールドカー構想「Tカー」プロジェクトによる小型乗用車のブラジル版で1973年に発売された、ドイツのオペル カデット、イギリスのボクスホール シェベット、日本のいすゞ ジェミニ、オーストラリアのホールデン ジェミニ・・・等を兄弟車に持つ。ワールドワイドに生産/販売されるTカーでソリッドカラーのピンクに塗られたのはブラジルのシェベットのみだ、ブラジルはあらゆる所でピンク/パープル味を帯びた赤土が見られるのでかなり強烈なピンクでも容易に背景(自然)にマッチしてしまう、日本で走ったら「宣伝カー」と間違えられるかも知れない。ワールドワイドに展開する「グローバルカラー」の大切さもさることながら各々の風土/環境/地域性に適した「ローカルカラー」の必要性も忘れる事が出来ないことを再確認した。
  • 87. ピパ/パパガイオ(1974年)リオデジャネイロでは夏冬をかまわず一年中「凧」があがっている。リオデジャネイロではピパ、サンパウロではパパガイオと呼ばれる凧は細い竹の骨組に薄紙を貼り付けたプリマティブな自家製がほとんどだ。山の斜面いっぱいに広がるファベイラ(貧民街)に住む子供達の大切な遊び道具の一つでパンツ一枚(素っ裸もたくさんいる)ではだしの子供達が糸を手繰る姿があそこここで見られる。ファベイラの電線には数え切れないほどの破れたピパや切れた糸がヒラヒラとぶら下がっている。ファベイラのピパは子供達の遊びだけにではなく大人達には「のろし」代わり(ファベイラは「麻薬とアルコールの巣」でもあるので警官とかよそ者が近ずいた時はピパで知らせる・・・)の合図/信号としても利用されていると聞く。フットボール(ブラジルではフテボール)に熱狂的なブラジルでは贔屓のフットボールチームのシンボルをアレンジした凧も多く見ることが出来る。
  • 88. フォルクスワーゲン SP2(1974年)SP2はこの年にコパカバーナビーチで初めて見かけてひと目惚れしてしまった車で2年後の1976年にブラジルに移住した時、サンパウロで友人からミディアムグレーのボディーに幅の広いレッドサイドストライプがテールランプに続く1.7リットルの1974年型を譲ってもらった(サンパウロ登録でナンバーはME1248)。ブラジルでは1970年代当時国内の自動車産業育成の為外国車の輸入が全面的に禁止されていた、その状況下でフォルクスワーゲンはブラジルで独自にスポーツモデルを開発した、すでに市販されていたRR方式のバリアンテをベースとする2シータースポーツカーでSP2はサンパウロ(フォルクスワーゲンの開発部門はサンパウロ州サンベルナード市に在る)を意味する。SP1は1972年1.6リッター65馬力で登場したがパフォーマンス不足で不評のためただちに1.7リッター75馬力のSP2に切り替えられた。走ってみるとRR方式の重量バランスが悪いのか、サスペンションジオメトリーがいい加減なのか、前がフラフラで直進性に問題があり高速で走るのはやや恐ろしいクルマだった。
  • 89. 石造りの家(1974年)1974年9月、ブラジルから日本への帰り道、家族4人(と言っても子供2人は1歳4ヶ月とたった2ヶ月の赤ん坊)でポルトガル北部の小さな村ポーボア・デ・セルバンテスというヨメさんのふるさとを訪ねた、日本人がこの村を訪れるのは私が初めてなので珍しがられてジロジロ見られること見られること・・・ポーボアにある義母の家は150年以上も前に建てられた古い石造りの家で壁には厚み60センチもある立派な石が使われている。ポルトガル北部は花崗岩がいくらでも産出するので家屋はもちろん家畜小屋、土地の境界線、階段なども花崗岩を積んで作られている、石は老化しにくいうえにペイントする必要が無いので自然の建築材として理想的だったのだろう。石を積み上げてあるだけの構造なので震度5くらいの地震が来たらひとたまりも無いだろう・・・などと心配するのは日本人だからだろうか?彼らは地震など全く頓着しない平和な人達なのだ。
  • 90. シトロエン Hトラック(1974年)この小さな村ポーボアで見かけたのが日本ではアッシュトラックと呼ばれているシトロエンのタイプHトラック、セミキャブスタイルの前輪駆動バンタイプコマーシャルビークルで1947年から1981年までの長い間市場で親しまれた(1974年はまだ現役生産中)。他に例を見ない波板プレスによるユーニークなエキステリアを特徴とするHトラックはFF方式によるシンプルで合理的なボディー構造が多様な用途に対応出来た為、救急車、消防車、郵便車、現金輸送車・・・等広範囲にわたってフレキシブルな機能性を発揮し利用された。私が見かけた稼動中の元気なHトラックは家畜用飼料を運んでいた、ややブルー味を帯びたグレーボディーカラーのやつで、プレートナンバーAG-89-87をつけていた。思わず写真を撮りたくなってしまう不思議な魅力を持つトラックだ。
  • 91. ルノー R4(1974年)グレー味を帯びたブルーのR4(キャトル)を最初に見かけたのはポーボアから15キロほどのところに在るモンガルデ市、ヨメサンの親戚のおじさんに借りた旧いビートル(2分割のリアウインドウのモデル)を運転して写真用のフィルムを買いに行った時のことだった。今ではヨーロッパ、日本をはじめとするミニカー/スモールカーセグメントで普通に見られるトールボーイスタイルがこんなに昔からあったのか?・・・フロントウインドーを前方に移動して少し寝かせれば現在でも通用しそうな立派な5ドアハッチバックのレイアウトではないか!ずんぐりしたたたずまいを見ていると何故か大昔のスズキ スズライトを思い浮かべてしまった。R4はルノーの大ット作4CVの後継車でもありシトロエンの大ヒット作2CVの競合車でもある、ルノーにとって失敗の許されない大切なモデルとして1961年に発売された。ルノー初のFFレイアウト車でヨーロッパではまさしく下駄として使われるベーシックでポピュラーなクルマだ、私はこのR4に微笑ましい親しみを覚えた。
  • 92. シトロエン 2CV(1974年)東京でオシャレで粋な雰囲気の2CVを何度か見かけた事はあったがヨーロッパで見かけたのはルノーR4と同じモンガルデ市だった、モンガルデ市には古くからシトロエンの工場があり2CVはこの工場でも生産された。ヨーロッパで見る2CVは東京で見るイメージと大きく違う、洗車などされた事の無いような埃まみれの2CVがパタパタと走り回る、オシャレでもなんでもない低所得層の「下駄グルマ」、まさに大衆車そのものの姿だった。2CVは超低価格、耐久性、経済性、大きな室内スペース、誰にでも乗れる(女性も含め)容易性をテーマにした「農民車」(開発時は主な対象が本当に農民だったと聞く)を実現させた独創的でいかにもフランス車らしい(シトロエンらしい)素晴らしい実用的なアイデアを満載した小型大衆車だ。私が最初に見かけたのはレッドの2CVでルーフの幌を開けて走っていた。後期モデルのヘッドランプは角型になってしまったが前期モデルの丸型のほうがずっと良い。
  • 93. シトロエン ディアーヌ(1974年)ディアーヌは2CVの後継車で2CVと同じ空冷水平対向2気筒エンジンを積み2CV同様ポルトガルのモンガルデ工場でも1967年から1983年にかけて生産されたので(私がモンガルデ市を訪れた時はまだ現役生産中だった)路上で何台ものホワイト、レッド、ベージュのディアーヌを見かける。ウエストライン上面も含めサイドパネル(4つのドアも含む)が乙面のネガティブサーフェスで造形されているいかにもフランス車らしい不思議なデザイン。どういうわけかディアーヌは2CVの後継車として登場したにもかかわらず市場での評判があまり良くなく、生産が打ち切られるはずだった2CVに人気が集まり続けてしまったので、後から出たにもかかわらず2CVより先に生産中止の憂き目に会ってしまった。ディアーヌには「ディアーヌ ナザレ(ナザレは小さな漁師町の名)」と呼ばれるポルトガルだけのスペシャルエディションがある。ブラックドアハンドルやシートのカバーデザインなど小さなドメスティックチェンジがほどこされたセールスプロモーションモデルと言えよう。
  • 94. シトロエン DS(1974年)リスボンで初めて出会ったシトロエンDSはクリームベージュだった。1955年に発売され1975年までの20年間生産され続けたクルマだからこの頃はまだ現役で生産されていた。ポルトガルでは「ボーカ・デ・サポ(カエルの口)」の愛称で呼ばれる、従来のオートモーティブデザインとかけ離れた滑らかで不思議なフォルムはフレンチデザインのユニークさを象徴する。エアロダイナミクスフォルムのフューチャーデザイン、快適なハイドロプネウマチックサスペンション・・・等数多くのイノベーションを満載したDSは「20年も先を行く車」と言われた。インテリアもエキステリアに負けずユニークで未来的なインスツルメントや一本バーのステアリングは宇宙船のような雰囲気をかもし出す。ヨメさんは「子供の頃このクルマの後席に乗るたびにフワフワと左右前後のゆれが激しく、すぐ車酔いをした悪い思い出があるので2度と乗りたくないと」と言う、シトロエンが世界に誇るハイドロプネウマティックサスペンションは車酔いをする人達には大敵なのだ!
  • 95. ルノーR5(1974年)サンク(R5)はキャトル(R4)の後継車として1972年に発売されたハッチバックスタイル(発売当初は3ドアのみで後に5ドアが追加された)のスモールカー、リスボンで最初に見かけたサンクはピンク味を帯びたベージュだった。ルノーの大ヒット作キャトルの実用的で使い易いレイアウト/パッケージにモダンなデザインをまとって登場したサンクはまたたく間にベストセラーになった。親しみやすい和やかなデザインはオシャレなフランス車の雰囲気満点、リスボンに住むヨメさんの友人のサンクに試乗させてもらった、1.1リッター 45馬力エンジンのスタンダードモデルはやや非力ながら4段マニュアルミッションで軽快によく走る、今でも魅力的なクルマだ。サンクには後にWRC(世界ラリー選手権)に参加する為エンジンをミッドシップに積んだ2シーターバージョンが現れる、R5ターボと呼ばれWRCホモロゲーションモデルとして1000台が限定生産され一般市場にも少量ながら販売された。
  • 96. フォルクスワーゲン ビートル(1976年)ブラジルではフスカ(南米産の大ゴキブリ)と呼ばれ長い間親しまれているビートルは子供の頃にあこがれたクルマの1台なのでサンパウロに移り住んで(国際協力事業団による工業移住者として)早速ソリッドブラウンの1300Lを購入した(サンパウロ登録でナンバーはN05838)。夏休みを利用して一家でサンパウロを出発点に南下、アルゼンチンとの国境近くまでキャンプをしながら(テントや大きな荷物は全てルーフに縛り付けて)「ディスカバリーブラジル」に出かけた、理奈(3歳)とえりか(2歳)の娘達は走行中リアシートの後ろにある小さなラゲージスペースに入り込んで楽しそうに遊んでいたのを思い出す(あの頃はベビーシートなどまだ無かったしシートベルトはあっても使わなかった)。かなりの連続走行(5時間走り続け)をすると1.3リッターの空冷フラット4エンジンは「ディーゼリング」を起こしイグニションキーを引き抜いてもエンジンが回り続けることがしばしばあった、そういう時はリアのエンジンカバーを開けエイヤッとスパークプラグコードを引き抜くとクックック・・・とかわめいてやがて止まる、6ヶ月で錆びが出始めるなどしてなかなかユーモアのあるクルマだった。
  • 97. フォルクスワーゲン ブラジリア「フスカ(ビートル)よりも大きななインテリアスペース、コンテンポラリーなモダンルック」を基本コンセプトとしフスカのプラットフォームを利用したフォルクスワーゲンブラジル社独自開発による3ドアハッチバック車ブラジリアが1973年に発売された、シャープな箱型デザインなので「四角いフスカ」とも呼ばれた。1年遅れて発売された5ドアハッチバイク車も含め爆発的な人気となり私が移住した1976年にはすでに多くのブラジリアが走っていた。当時ブラジルではまだ2ドア(ハッチバック車の場合は3ドア)全盛の時代で4ドア(5ドア)はタクシーと間違えられるほどだった。リアエンジンなのでハッチバックは上半分しか開かなかったが(下半分はエンジンスペース)フスカに比べれば雲泥の便利さだ。ブラジル人に「ブラジリアのどこがいい?」と聞くと「ラジエターが無いから水を入れる必要もないしオーバーヒートしないのがいい」と言う返事が返ってきた。イエロー、レッド、ホワイト、ブルーのソリッドカラー車が多く見られた。
  • 98. ノーサ・セニョーラ・デ・アパレシーダ「黒の聖母(守護女神)」ノーサ・セニョーラ・デ・アパレシーダには言い伝えがある、サンパウロ州ガラティンゲタ村に伝わる話だ。1717年に3人の漁師がパライバ川で漁をしていたがさっぱり収穫がなかった、やがて川底から泥にまみれた首のない黒い聖母像が漁網で引き上げられた、ついで首も引き上げられた、その直後奇跡的に魚が獲れ始め船いっぱいの魚を積んで家路に着くことが出来た、奇跡を起こした黒いマリア像を守るために村に小さな教会を建てた。やがてこの奇跡の話がカトリック信徒の耳に伝わり(ブラジルは7割以上がカトリック信者と言われる)黒いマリア像はカトリックに基ずく公式守護神として認められアパレシーダ・ド・ノルテ市にカテドラル(大教会)が建てられた。本当に不思議な事にどのようにして私の元に届いたのか今でもわからないのだがブロンズで出来た小さな「黒の聖母」が今も守護神としてキーホルダーに大切につけてある。毎年10月12日はノーサ・セニョーラ・デ・アパレシーダを祭る祝日で子供の日でもある。
  • 99. プーマフスカ(ビートル)のプラットフォーム(エンジン、サスペンションも含む)はシンプルで壊れにくく比較的安価なので、このプラットフォームをベースにFRP製ボディーを載せてデッチ上げる零細スポーツメーカーがいくつかあった。カルマンギアのプラットフォーム(基本的にはフスカと同じ)をベースにしたプーマ(PUMAと描いてピューマではなくプーマと発音する)はそれらの中では一番「マトモ」なモデル、2シータースポーツカーはGTEが2ドアクーペ、GTSが2ドアコンバーティブルとして1971年に発売された。生産台数も数ある国内スポーツカーメーカでは一番多く、純ブラジル製のスポーツカーとして大成功を収めていた。イエローのGTEオーナーの近所の友人が「ボンネットとリアクォーターパネルにオリジナルなエアインテークを付けたい」と言う、「リアエンジンだからボンネットにエアインテークなど付けても仕方が無いだろう」と言うと「カッコよければいいんだよ!」???という事でうちのガレージで実車の上で直に石膏でモデリングをした後、雌型をとってFRPパーツを造り上げた。彼は大喜びで「ムイトボンムイトボン(凄くいい 凄くいい)」を連発してご機嫌だった。
  • 100. ブラジリアンバギーブラジルではブグレ(BUGRE)と呼ばれるバギーは大別して2種類がある、1つはフスカ(ビートル)そのものに大径タイアをつけたりフェンダーの形状を変えたりリアのエンジンをむき出しにしたりしてバギー風に改造した簡易バギーでフスカのルックスを保つ。もう1つはフスカ(ビートル)のプラットフォームとエンジンを使用してバスタブ状の簡単なFRP製オリジナルボディーを載せて造られるバギー、FRPのボディー表面は塗装を省くためレッドとかイエローとかの着色ジェルコートが使われるケースもある、ボデイーにはあまり頼りになりそうもないロールバーが付く(ロールバー自体はゴッツイのに取り付けがいいかげんで危なっかしいのをずいぶん見た)、フスカのリアエンジンはむき出しのままがほとんどだ。サスペンションは多少強化する、とはいってもオフロードを激しく走り回るバギーは稀で、ほとんどは海辺とか街中をトロトロかっこつけて流すオンロード走行の方がずっと多い。トロピカル国ブラジルにはルーフもドアも無い解放的で底抜けに明るいバギーがよく似合う。
  • 101. イペイペはブラジルが原産地でかなりの大木になる、花の咲く時は葉は無いので枝という枝に花をびっしりと咲かせたイペの大木は何とも大陸的で美しい。広大な地にまっすぐに伸びる高速道路を走っていると突然ポツンとそびえる真黄色のイペの大木を見かけて思わずアクセルを緩め、その壮大さに唖然とする事がある。パープル/バイオレット/ホワイトのイペもあるけれどブラジルの真っ青な青空と強烈なコントラストを見せるイエローのイペが私は一番好きだ。その美しさから「ブラジルの国花」とされブラジルナショナルサッカーチームのイエローはイペから来ていると聞く。赤褐色の木(幹/枝)はその強靭さ、柔軟さ、水に強く腐り難さから「王様の木」と言われ古くから貴重な木材として尊重されてきた、美しさと耐久性(耐光、耐温、耐水)/耐年性(耐蝕、耐老化)の高さから最近では建築材、ウッドデッキ、公共施設材・・・などとして世界中で脚光を浴びている。
  • 102. ベイジャフロルブーン ブーンと蜂のような羽音をたてて飛ぶので日本ではハチドリ/ハミングバードと呼ばれるがブラジルではベイジャフロル(花に口ずけする鳥)というかわいい名で呼ばれる、空中でヘリコプターみたいに静止(ホバリング(飛翔))しながら長いくちばしをストロー代わりにして花のネクターを吸う小型の鳥。家の垣根のハイビスカスの花にいろんな種類のベイジャフロルがよく飛んで来ていた、尾の長いのや短いの、口ばしの長いのや短いの、カラーもグリーン、ブルー、オレンジ、レッド、ブラウン・・・いろいろなバリエーションが見られるが一番ポピューラーなのはグリーン&ブルーのティールカラーのやつ、飛んでいる時はメタリックカラーのようにキラキラと鮮やかに輝く。雨の日などホバリングを止め(水の重さでホバリングが出来ないのだろうか?)枝に止まってしょんぼりとびしょ濡れになっているベイジャフロルを何度か見かけた。
  • 103. ロミゼッタ/BMWイセッタサンパウロの街でロミゼッタに出会った。フロントが全面ドアーとなり、ステアリングホイールやメーター類がドアと共に前方にガバッと開き、乗降口となる(前方から乗り降りするという発想は何処から来たのだろう?)ユーモラスな2シーターバブルカーで座席の後ろに小さなラゲッジスペースを備える、その独創性にただただ感心するばかり、一見3輪車に見えるが実は後輪のトレッドが極端に狭い4輪車。イタリアのイソ社のイセッタをブラジルの農耕機会社ロミ社がブラジルでライセンス生産したので「ロミ」の「イセッタ」すなわち「ロミゼッタ」である。1956年にサンパウロで生産が開始されたロミゼッタはブラジル国産量産第1号という輝かしい歴史を作り市場で大好評を得た。しかしながらロミゼッタ発売直後ブラジルの自動車工業会が「自動車は最低限2シートと2ドアを持たなければならない」というおかしな規制を制定したためドアが1つしかないロミゼッタはわずか3000台の生産をもって1959年にはあえなく工場閉鎖となってしまった。ドイツではBMWがやはりイソ社からのライセンス生産をし、BMWバイク用の単期筒エンジンに載せ換えたBMWイセッタ300(後に600が加わる)が大成功を収め今日のBMWの基礎を築いた大切な車と言える。
  • 104. ムラータブラジルではヨーロッパ系の白人の父親とアフリカ系の黒人の母親の間に出来た子をムラート(女性はムラータ)と呼ぶ。もともとはポルトガル人(長い間ブラジルはポルトガルの植民地だった)主人(男)とアフリカから連れて行かれた黒人奴隷(女)の間に生まれた子もしくは生まされた子・・・とのことだ、最近では父が黒人、母が白人のケースも増えている。ダークな肌にブルーの瞳グリーンの瞳、グラマラスで抜群のプロポーションのムラータはなんともエキゾチックで美しい。ブラジル人は「ポルトガル人がブラジルでやった事で唯一の良い事はムラータを創ったことだ」とポルトガル人の悪口を言う。人種と言えばサンパウロはイタリア系に次いで2番目に多いのが日本系、数の多い日系人はかなり大きな顔をしていて日系人同士で話をする時などは自分が外人なのにブラジル人を外人呼ばりするのには笑ってしまう、ブラジルはホワイト(ヨーロッパ系)、ブラック(アフリカ系)、イエロー(アジア系)、ブラウン(ムラート)・・・等肌の色を気にしない素晴らしい国だ。
  • 105. タツゥー友人(ドイツ人の父と中国人の母を持つハイブリッドブラジル人で奥さんは日系2世人)から「タツゥーを捕えたから食べに来い」という電話がかかった。タツゥーはアルマジロの事で危険を感ずると丸くちじこまって硬い鱗甲板で覆われた甲羅で身を守るおとなしい茶褐色の動物、英語のARMADILLOはスペイン語(ポルトガル語も同じ)のARMADO(武装した)に由来する。夜行性の動物で夜は捕えにくいので昼間すみかの穴を見つけて煙であぶり出しにして捕えたのだそうだ。かわいい動物なので可愛そうな気もしたが鍋の中で料理されてしまっているのだから逃がしてやるわけにもいかない、肉は少し固めだが匂いも無くなかなかおいしかった。甲羅はもらってきてしっかり干してからクリアラッカーをかけリビングルームの飾り物にした。人類は地上で一番野蛮で危険な動物と言われるがつくずく本当だと思う。
  • 106. フォルクスワーゲン カルマンギアブラジル移住者の同期でフォルクスワーゲンに就職した友人が1967年式ソリッドグリーンのカルマンギア1600をポンコツ屋から探し出してきた、そのうちボディーを取り払ってバギーにするつもりだからエンジンさえ回ればいくら古くてもかまわないのだそうだ。このモデルは1955年ヨーロッパで発売され1962年にブラジルでも発売が始まったリアエンジン車、発売当初は1.2リッターだったが1967年に1.6リッターが追加された。友人のカルマンギアはしばらく使っているうちに錆びていた床が腐り落ち穴が大きくなり始めた、走行中穴から風が入って涼しくて良いのだがそのうちシートごと落っこちそうだ、危ないからFRPで穴を塞ごうということになった。幸い知り合いに「銭亀」という名の日本風呂桶をFRPで生産している日系人がいたので材料はそこで調達した。ドライバー側の床を2人でFRPを4枚ほど張って強化した、これでしばらくはシートが転げ落ちる事もないだろう、床全体がドサッと腐り落ちる危険性もあるのだが・・・
  • 107. ジャララカ/コラルトロピカルな気候は蛇たちにも住み心地が良いと見えてシャカラとかファゼンダとか呼ばれる農地/別荘を訪れると、見た事も無い大小のいろいろな蛇に出会う、私は蛇が結構好きなので蛇に出会うたびに傍によってじっくり見ることにしている。ジャララカとコラルはブラジルの毒蛇の中で最も危険な蛇だ。ジャララカはブラジル全土に生息する攻撃型の猛毒蛇で蛇にかまれる事故の大半はこの蛇によると言われる。一般的には灰褐色の地肌に黒の三角形模様だが私がサンパウロの農地で見かけたのは1メートル近くもありそうな真っ黒のジャララカでバナナの木の根元でとぐろを巻いていた。コラルは日本のマムシを思い起こさせる鮮やかなイエロー/レッド/ブラック3色からなる体色を持つ美しい蛇、何回か出くわしたこの蛇はジャララカ以上の猛毒蛇で咬まれたらほとんどの人が命を落とすという。
  • 108. ランチア ストラトスストラトスはWRC(世界ラリー選手権)に勝つ事のみに焦点を当てて開発(デザインはベルトーネ)された特異なマシーンでフェラーリ2.5リッターV6エンジン(ディーノ246にも使われた)をラリー用にハイチューンしてミッドシップに搭載し1971年のトリノオートショーでデビューした。ラリーカーの常識からかけ離れたショートホイールベース/ワイドトレッドのレイアウトでコーナーでの圧倒的な強さは他のラリーカーを寄せ付けず1975年/1976年とマニュファクチュラー選手権の連続優勝を果たした。ストラトスはグループ4(生産車ではなくレースカー)参加へのホモロゲーション台数をクリアするため400台限定の市販もされた。ラリーカーのホットな魅力と息ずまる迫力を私に伝えてくれたのはこのクルマだ、ホワイトボディーにレッドとグリーンの「アリタリアグラフィックス」でドレスアップした戦闘的なストラトスのなんとカッコいいことか!
  • 109. シボレー オパーラGMブラジルデザインディレクターのクルマはブラックのシボレー オパーラ(ドイツオペル レコードのブラジル版)のステーションワゴン、カラバン(キャラバン)・ディプロマタだった。このカラバンはディレクタースペシャルカーとして特別なペイントワークが施された。「ウエストラインに走るレッドの細いダブルピンストライプがブラックのボディーカラーと共に深く沈んで見えるようにしたい」と言う彼の要望に沿い8回もの塗装、8回もの水研ぎと8回ものクリアラッカー塗りを繰り返して深みのある透明層の下にレッドストライプが沈んで見える高級感を創りだした、果たして太陽光の下で見る透明感はタダモノではなかった。ホイールとインテリアもオールブラックでコーディネートされ、グリルとホイールのシボレーエンブレムがレッドのアクセントとなるカラバン・ディプロマタは誰が付けるともなく「バットマンカー」のニックネームが付けられた。
  • 110. チラピアサンパウロ周辺の堤(レプレーザ)や池で簡単に釣れる最もポピュラーな淡水魚、ミミズやサシ(ウジ)でも釣れるが生トウモロコシの1粒を針に引っ掛けるかエルバドーセ(セロリの仲間?)の柔らかい葉を針にくくり付けて餌にすると良く釣れる、道端の雑草をくくり付けても釣れるほどの雑食で食欲旺盛の魚だ。アフリカが原産といわれ繁殖力が強く成長が早く他の魚の卵や小魚を食べあさるのでチラピアが繁殖する水域には他の魚がいなくなってしまう、最近ではこの強い繁殖力を利用して養殖され日本へも輸出されていると聞く。フナに似たグレーの体にイエローとブラックの縞模様がある、煮たり焼いたり揚げたりいろいろな料理法で食べてみたがやはり塩焼きと刺身が一番うまい。25センチ以上のチラピアが釣れた時は刺身(淡水魚は刺身に向かないと言われるがそんなことはない)にするのだが白身でさっぱりした味はタイに似ている。
  • 111. ホテイアオイ堤や池に釣りに行くと必ずと言っていいほど見られるのがホテイアオイ(葉の付け根が膨らんで浮き袋の様になる姿が布袋さんのお腹に似ているので布袋葵)という浮き草だ、アフリカ原産でウォーターヒアシンスとも呼ばれ繁殖力が強く、増えすぎて害を及ぼす事もある。大きな堤の水面に群集して咲き乱れるブルー/バイオレットの花はすがすがしくて本当に美しい、水面を風に吹かれるままスーッと流れ漂う「宿無し草」は地面に咲く花とは趣の異なる風情を見せる。日中の暑い時にはチラピアが日陰を求めてホテイアオイの群集の下に集まるのでホテイアオイの切れ目がチラピア釣りのポイントでもある。静岡の両親の家の小さな池にも浮かんでいたので子供の頃からなじみのある浮き草、膨らんだ部分を掌にのせて勢いよくたたくとパンッという音を立てて布袋さんの腹が破裂したのを思い出す。
  • 112. トヨタ ランドクルーザー/バンデイランテトヨタがブラジリアンランドクルーザー(日本ではJ4、ブラジルではJ5と呼ばれたモデル)として1958年に発売したジープスタイル4x4オフロードビークルで4リッター直6の低回転ガソリンエンジンを積んでいた。1962年ブラジル国産化(85%)に伴いトヨタ ランドクルーザーから「トヨタバンデイランテ(開拓者)」と改名され、トヨタのガソリンエンジンは経済的で燃費の良いメルセデスのブラジル国産4気筒3.8リッターディーゼルエンジンに載せ代えられた。ジープスタイルむき出しのバンデイランテは勤労さとタフネスさが抜群で整備が簡単なので「4x4といえばバンデイランテ」とオフロードでの信頼性を得、2001年までの長い間生産され続けた。バンデイランテは明るいソリッドカラーのブルーのボディーにホワイトのグリルがよく似合う。
  • 113. ムルセーゴサンパウロ郊外のシャカラ(別荘を兼ねた小農地)で30羽ほどの鶏を飼っていた事がある、鶏小屋は4メートル程のこんもり茂ったジャボチカバという木を真ん中に置いて夜は鶏がその木の枝で眠れるように配慮して建てた。ジャボチカバは幹に黒紫の葡萄状の果実(中身は白半透明で甘くておいしい)を付ける。半放し飼いのニワトリ達は夜になると木にもぐりこんで寝るようになった、ところがである!いつの間にこの木の中に住み着くようになったのか?茶褐色のムルセーゴ(こうもり)しかもバンパイア(吸血コウモリ)が夜間鶏を襲い始めた、バンパイア(ブラジルではバンピーロ)にとっては鶏の方から毎晩もぐり込んで来てくれるのだからこんなうまい話はない。バンパイアは足で歩く事の出来る唯一のコウモリだそうだ。とりあえず木の中に弱い裸電球を燈してしばらく観察してみた、本当に不思議なのは首筋にすがり付いて血を舐められているのに鶏は全く気が付かないようで鳴きも騒ぎもしない。農薬噴霧と煙のあぶり出しでバンパイアを追放する事にした。
  • 114. ガリーギャガリーギャは鶏のこと(鶏肉はフランゴと呼ぶ)、面白がってレグホン/チャボ/アフリカーナ・・・などいろいろな種類の鶏を飼っていたが吸血コウモリに一番狙われたのは首筋が七面鳥やハゲワシみたいに羽がなく皮膚丸出しのガリーギャ・デ・ぺスコーソ(首)・ペラーダ(裸)という種類の鶏、普通の鶏より足が長く体もひとまわり大きくやや獰猛。この鶏はフランス原産で「ラベルルージュ」というフランス公認の優良品質を保証する「赤ラベル」が付く、インダストリアライズされた普通の鶏のように一羽ずつ狭く区切られた養鶏場で夜も電灯の下で照らされ、24時間人工飼料を食べさせられてアッという間に大きく育てられるのではなく、広いスペースに半放し飼いにされて食べたい時だけ食べて野性っぽく育てられる、そのため贅肉のない引き締まった肉になる、やや固めだがすごくおいしい、値段は肉も卵も普通の鶏より大分高くなる。
  • 115. パルメイラス1976年、本場のサッカー(ブラジルではフテボール)を初めて観に行った、デザイン部の友人(スタジオエンジニア)に連れて行ってもらったのだが彼は自他共に認めるパルメイラス狂(教かもしれない)なので私もパルメイラス応援団の仲間入りをするハメになった。パルメイラスのチームカラーはグリーン、相手チーム インターナショナルはレッドだ、さすが本場サッカーの迫力は中途半端ではない、神技みたいな凄いプレーをする選手が何人もいる・・・めちゃくちゃ凄い、前から5列目くらいの席に座ったのでドスッドスッとボールを蹴る音が激しく聞こえてくる。観衆の熱狂振りは日本では想像も付かない、見ているだけであそこまで興奮出来るものであろうか?とにかく凄い!試合は1対0でパルメイラスが勝った。私はその日パルメイラスファンになってしまった(されてしまった)、その後、面白そうな試合にはパルメイラスのスタジアム(パーク・アンタルチカ)に足を運ぶようになり自他共に認めるかなりのパルメイラス狂になってしまった。パルメイラスのマスコットはポルコ・ベルデ(グリーンの豚)、私はいのししなのでちょうど良い。
  • 116. F1タイレル6輪レースカー1976年のスペインGPでデビューしたタイレルの6輪F-1レースカーは翌年ブラジルGP,サンパウロのインターラゴスレース場にやってきた。ブレーキ性能の向上(6輪によるタイアの接地面積の増加)とエアロダイナミクス改善(小径タイアで前面投影面積を減らす)を主目的とした小径前4輪システムの奇抜で革新的な6輪マシーンだ。ブラジルの1月は真夏、インターラゴスは焼け付くように暑くレーススタート前には放水車がレースコースからメインスタンドの観客に水をぶっ掛けてくれるサービスもある。2台のタイレルはブルー&ホワイトのボデイーにエルフロゴが鮮やかに浮かぶ、ドライバーはロニー・ピーターソン(カーナンバー3)とパトリック・ドゥパイエ(カーナンバー4)、2台ともアクシデントでリタイアしてしまった、レースに勝ったのはフェラーリのアルゼンチンドライバー カルロス・ロイテマンだった。タイレル6輪マシーンはかなりの実績を挙げたものの、複雑なメカニズムとタイア交換に時間がかかることに加えタイアサプライアーのグッドイアーがタイレル専用スモールタイア開発が出来ず、わずか2年でオーソドックスな4輪マシーンに戻されてしまった。
  • 117. ママウン(パパイア)パパイアはブラジルではママウンと呼ばれる、最もポピュラーな果物の1つで新鮮なママウンが1年中食べられる、皮はイエローグリーン/イエローオレンジで中がサーモンオレンジのママウンはレストランにもデザートとしていつも用意されている。こちらのママウンは大きいのでスイカのように縦に細長く切ってお皿にのせ、ナイフとフォークで食べるのが一般的で日本式にスプーンですくって食べるのを見た事がない、牛乳と一緒にミキサーにかけてミルクジュース(ビタミーナという)にするのも良い。リオデジャネイロに住む義兄アントニオ(ヨメさんの兄でポルトガルから移住しスーパーマーケットを営む)のファゼンダ(大農場)で長さ25センチ直径15センチもある大きなママウンが2メートル半程の高さの木に「千成ひょうたん」のように鈴なりになってぶら下がっているのを見てびっくりした。
  • 118. ジャーカ(パラミツ)ジャーカも義兄アントニオの農場にあった。産まれて初めてみる不気味?な果実、ジャカレイラの木に成る大型フルーツでママウンよりふたまわりも大きく長さ50センチ(大きいのは80センチにもなる最大の果実)直径25センチほどの突起状のイボイボで覆われた表皮を持つグリーンイエローの果実が大木の幹や太い枝に直にぶら下がる、他の果実には見られないとぼけた不思議な光景だ。 熟すとイエローになる果実は甘い強烈な匂いを放つ、早速食べてみた、とにかく大きいので縦に切ったり横に切ったりしてお皿に乗る大きさにする、びっしり詰まっている楕円形の平べったい種の周りの果実を食べるのだがタネの周りに取り巻いている繊維を一つ一つ取り除きながら食べるので結構面倒くさい、少しクセのある甘さでなかなかおいしいがママウンのように毎日食べたいとは思わなかった。
  • 119. ルノー ゴルディーニこんなガタガタで古い車でもフツーに走るの?と思うくらい手入れの悪いクラシカルな車に出会う事がたびたびあった。こ汚いルノーゴルディーニに最初に出会ったのは1977年だったと記憶する。ゴルディーニはフランスのルノーが大成功を収めたリアエンジン乗用車4CVのレイアウト/メカニズム/エンジンを踏襲して開発され1956年にルノー ドルフィンとして登場したモデル。ブラジルでもウイリス・オーバーランドが1960年にルノーのライセンスを受けて生産を始め、2年後の1962年にはエンジンの強化、高級化などのマイナーチェンジを施してゴルディーニ・ウイリス・ルノー(通称ゴルディーニ)と改名した。4CVアイデンティティーのボディーサイドエアインテークを受け継ぎ4CV特有のエンジンサウンドをとどろかしながら走るとろんとした丸いボディーのゴルディーニは見ているだけでもなんとなく心が和らぐ、義兄アントニオがブラジルに移住(1962年)して最初に買ったクルマがグレーのゴルディーニだったという、見せてくれた写真をにはリオデジャネイロ登録で22-12-58のナンバーが付いていた。
  • 120. ピンガ 51/カシャーサピンガはカシャーサとも呼ばれるブラジル庶民の酒でサトウキビのしぼり汁を発酵させて造る蒸留酒。アルコール40度前後(65度もある強いのもある)のピンガはストレートで飲んでもおいしいがリマレモン汁を加えて「エスプレミジーニャ」にして一気飲みするのもこれまたおいしい。「カイピリーニャ」はコップに4つ切りのリマレモンと砂糖を入れゴマすり棒でおし潰しピンガと砕き氷を入れかき回すと出来上がり!カッコ良く見せたい時はかき回す代わりにもう1つのコップをピンガ/砂糖/リマレモン/砕き氷の入ったコップの上にしっかり重ねカクテルのシェイカーの要領で8の字にシャカシャカシャカと振ると小さな気泡が出来てよりおいしそうに出来上がる、カイピリーニャは今やトロピカルなブラジリアンカクテルとして世界中でポピュラーになりつつある。市販ブランドでは51(シンクエンタ・エ・ウン)、ベーリョ・バレイロ、イピオカ・・・などが知られるが「シンクエンタ・エ・ウン!ボアイデア!(51!グッドアイデア!)」の謳い文句の51は全世界のトップブランド。
  • 121. ホバーロ(スズキ)釣り10年以上もスズキ釣りに熱中している友人(ブラジル人)はサンパウロ市から120kmほど南に在るベルチヨガ川の河口付近のホバーロ(スズキ)の「魚道マップ」を自分で作り上げ宝のようにして他人には絶対教えない。スズキは引き潮、上げ潮に乗って毎日正確に魚道を行き来するので潮の満ち干とのタイミングが勝負だ。河口付近の川の流れはかなり強いので3~4人乗りのボートには2機のエンジンが必要になる、25馬力のエンジンは潮と時間を見ながらの移動用、2馬力の小さなエンジンは目的ポイントに着いてから潮に流されない様ポイントに停止用として使い分ける。大きめな丸オモリを釣り糸の先端に結びオモリから30センチくらい上に釣り針を仕掛けエサの生エビ(8センチ程もあるおいしそうな大きなエビでボートに備わっている生簀に50匹ほど生かせておく)の背中の硬い部分に針を引っ掛ける、まずオモリを水底に着かせそれからリールで2回りほど引き上げる、エビは水底から30~50センチのところを元気に泳ぎ回る、スズキはエビの頭からかぶりつくので頭だけ食いちぎられる時がよくある。釣り上げたスズキを即ボートの上で刺身にして食べるのはなんと風流な事か、ボートにはもちろんビールが沢山積んである。
  • 122. フィッティパルディーF5Aエマーソン・フィッティパルディーはF-1で2回(ロータスで1972年、マクラーレンで1974年)、CART(フォーミュラインディー)で1回ワールドチャンピオンになったブラジルの英雄。1975年には独立して「フィッティパルディーオートモーティブ」を設立、ブラジルの砂糖会社コオペラスーカをスポンサーに得て100%ブラジリアンのチームを形成する。1977年の事だ、78シーズンに備えてF5Aレーシングカーのコクピット周りをエマーソンの体に合わせてGMブラジルデザインスタジオでクレイモデルを造ることになった、エマソンと兄のウイルソンがエンジニアを連れてたびたびスタジオを訪れた。F-1マシーンのコクピットが狭い事は知っていたがここまでタイトに(ドライバーがほとんど身動き出来ないほどにスペースを切り詰める)するとはやはりミリ単位で戦うF-1ならではだろうと納得する。コオペラスーカのアイデンティティ-カラー イエローに塗られたF5Aは当時「一番美しいF1マシーン」と言われ‘78、‘79の2シーズンを戦ったがシャーシーのねじれが予想外に大きく残念ながらまともな戦果を残す事が出来なかった。
  • 123. ガマガエル「サポ・レロ」サンパウロのアパートで22センチほどもある黄褐色の大きなガマ蛙(サポ)を台所/洗濯場に放し飼いにしていたことがある、子供達は「レロ」と名を付けてかわいがっていた。台所/洗濯場を夜歩き回るゴキブリを食べてもらおうという目的でシャカラ(小農地/別荘)から連れてきたのだ。レロ君は昼間はトイレの隅におとなしく寝ているが夜になるとノソノソ歩き出し大活躍をしてくれる。ガマ蛙は予想以上にお利巧な動物でゴキブリの出て来る場所をちゃんとマークし、そこで待ち受けて、出てくるゴキブリをペロッと食べてしまう。お腹を上にして喉から腹にかけてなでてやると手足を縮めて眠ってしまうかわいいやつだ、体が大きいのでかなり匂いのする大きな糞をする、かたずけるのは私の仕事になったがゴキブリを退治してもらう代償だから仕方がない。ある時パートタイムのおばさんがアパートの清掃をしてくれた事がある、うっかりレロ君のことを伝えるのを忘れたのだが、案の定トイレの掃除に入ったおばさんは大きなガマガエルがのそりと動き出すのを見てギャッ~と悲鳴をあげてパニック状態に陥ってしまった、ヨメさんがコップの水を持って駆けつけおばさんの気を休める騒ぎになった。今思い出すとおかしくて笑ってしまう、おばさんゴメン。
  • 124. プリマベーラブラジル原産のプリマべーラはブーガンビリアとも呼ばれパープル、バイオレット、レッド、クリーム、オレンジ・・・等トロピカルでエキゾチックな極彩色の花を咲かせる、あの美しい花は実は葉の変形したもので本当の小さな花は変形した葉の中に守られているという。サンパウロから130kmほどのところにあるGM大農場のアーチ状の入口門でアーチ状に咲き誇るレッドパープルのプリマべーラのまぶしい美しさに圧倒されてしまった。GM大農場内にはコーヒー園やオレンジ園などの農園の他に会議室、技術試験室、テストコース、衝突実験場がある、ここで会議のある時は大抵テストコースでのGM車/他車乗り比べとかデザイン部が首脳部に対してプレゼンテーションをするなどのスケジュールが組まれる、私はテストコースで飛ばせるのが大農場での会議に参加する最大の楽しみだった。研究実験用のドキュメントで海外から取り寄せたクルマは研究実験に使用後、大農場の衝突実験場に送られテスト用ダミー人形を乗せてコンクリートの壁にブチ当たる最後の使命を終え、バラバラにばらされジャンクとなる。
  • 125. メルセデス セミキャブトラックブラジルのような広大な国土(日本の約22.5倍もある)ではトラックよりも鉄道の方が合理的で輸送コストもずっと安くなるはずなのだが鉄道インフラが充分でないため全貨物輸送量の60%以上をも トラック輸送に頼っている、そのトラック輸送の大役筆頭はメルセデストラック, ブラジル全トラックの50%以上を占める・・・と いうことは2台に1台はメルセデストラックだ。ブラジルにおけるメルセデストラックの歴史は古く1956年までさかのぼる。1956年に中型トラックL312の生産が始まり通称トルペード(魚形水雷)と呼ばれた、ブラジル初のディーゼル車でもあった。1964年に発売されたセミキャブタイプのL1111は後にエンジン/積載量を大きくして追加されたL1113と共に大ヒット(L1111は4万台、L1113は20万台)、メルセデストラックの存在をゆるぎないものにした。巷にあふれるメルセデストラックは全てソリッドカラーでレッド、ブルー、イエロー、グリーン、オレンジ・・・とすこぶるカラフルだ。このセミキャブトラックのヘッドランプは丸型2灯で始まったがマイナーチェンジで角型4灯に変更された、丸型の方がずっと良い。
  • 126. ダッジ ドジーギョブラジルでの私の購入車第1号のフスカ(ビートル)1300Lは1年ほど乗ったがやはりパワー不足で物足りなくなり、もう少しパワーのあるクルマに乗りたくなった。中古車を物色しているうちにダークブラウン(インテリアもブラウン)のドジーギョ(Dodginho )を見つけて交換する事になった。ドジーギョは英国のヒルマン アベンジャーをベースにヘッドランプ、バンパーなどを変更したブラジル版で1973年に発売、正式名はダッジ ポラーラという、当初品質に問題があり市場で悪評を買った。私のドジーギョは74年式で内外装の見かけはすこぶる良かったのだが市場での悪評どうりメカニズムがいい加減で走行中にサスペンションが壊れたりラジエーターのゴムホースが外れたりウインドグラスが上がらなくなったりして大変な目にあった。それでもそこそこのパワーがあったのでよく走り結構楽しめたクルマだった。
  • 127. ベースボールサンパウロは日本人/日系人が多いのでベースボールチーム、ソフトボールチームが沢山ある、私の住むサンカエターノ市の隣、サンベルナード市にあるソフトボールチーム「コスモス」に入れてもらい毎月第2日曜日の定期ソフトボール大会に参加していた、コスモスのユニフォームはペールベージュにレッドのアクセントが入る。この大会は日系人の親睦と友好を主目的として始められたものでそれぞれのチームには女性を最低1人入れなければならないというルール(女性が入ると大会のムードがすっかり和やかになる)がある、毎回トラクターのコマツ、宗教の天理、日系人がウヨウヨいるモジダスクルーザス市・・・等10チーム程がスザノ市にあるコマツの野球場に集まってくる。私は試合もさることながら日本人/日系人奥様達が腕によりをかけて作って持ちよる日本食をいただくのが何よりの楽しみだった。背番号は私が2、長女理奈ちゃんが51、彼女はその後アメリカのオレゴン州立大学(デザイン専攻)在学時代ソフトボール部のキャッチャーでMVPを獲得したグットプレーヤーだ。
  • 128. カラープレゼンテーションGMブラジルのデザイン部は社内エキステリアカラープレゼンテーションを毎年5月にサンジョセ工場(シェベットとエンジン(乗用車/トラック)の生産)内の広大な芝生の上で行っていた。グラスリッテ、イピランガ、コラル、デュポン・・・などのペイントサプライアーと共に1年間開発してきた20色ほどのメタリックカラーと4色ほどのソリッドカラー新色をシェベット2ドアモデルの左側ドアーに塗装して芝生の上でプロポーサルする。ある時エンジニア部門の太った偉いさんがハンカチで顔の汗を拭きながら「このブルーはもう少し明るくならないか?」と言う、なんと真っ黒なサングラスをかけているではないか!!!白人の青い目は太陽光に弱いのは判るのだけれどカラープレゼに真っ黒なサングラスはないだろう・・・「この白ブタめ」とかなり不愉快になった私の顔にボス(デザインディレクター)が目で「相手にするな、Yoshi、 take it easy!」とサインを送っている、ボスは多分こういう馬鹿げた出来事をすでに何回か経験しているのだろう、それにしても腹が立った。
  • 129. グリーンイグアナブラジルでは驚くほど多くのトカゲ類を見かけるがその中でも大型のイグアナはカッコいい!。暑い日中に日なたに出て日光浴をしながら寝そべっているのを見かける事がある、ノソッとしているように見えるが予想外にすばしっこくて容易につかまらない。友人のシャカラ(小農地/別荘)の家の土間に迷い込んでフッフッと口を開けて威嚇しながら逃げ回るブラウン味を帯びたイエローグリーンのイグアナをほうきで抑えて捕らえたことがある、首を掴んでぶらさげると威嚇音を発しながら咬みつこうとしたり手足の爪で引っかこうとしたり興奮して糞をたらしたりかなり強暴なやつだ。35センチほどもある大きなカッコいいイグアナなので子供達に見せたり触らせたりしてから逃がしてやった、私は食べた事がないのだが友人に聞いたところによると鶏肉みたいでおいしいのだそうだ。
  • 130. メルセデスの2トーン‘70年代から80年代中頃までのブラジルオートモーティブ界の趣向はヨーロッパよりもアメリカに傾いていた、モノクロマティックインテリアもその例でレッドのモノクロ、ブルーのモノクロ、ベージュのモノクロ、グレーのモノクロ・・・と単一カラーで仕上げるのが流行していた。インテリアに使われるマテリアルはプラスチック、ファブリック、ビニール、メタル・・・等多種多様なので同じレッドでもマテリアルによってトーンの異なるレッドになってしまう。太陽光線下では同じに見えても蛍光灯下では異なって見えるとか赤外線や紫外線を当てると異なって見えてしまうとか問題は耐えない、モノクロマティックシステムのカラーマッチング/カラーコントロールは非常に難しいし100%のマッチングなどありえない、つまるところどこで妥協するかということである。メルセデスはこのマッチングの難しさを逆手にとって同色相であえて明度/彩度の異なる2色を2トーンカラーエキステリアとするオリジナルなコンセプトを生み出した、実に明快でアピール効果のあるグッドアイデアだ。
  • 131. シャカラ・ダス・オルテンシアス(紫陽花荘)シャカラ(小農地/別荘)を購入した時、家の回りはサマンバイアと呼ばれるシダに覆われて2株のオルテンシアス(紫陽花)があった、淡いトーンのホワイト、ブルー、パープル、ピンク・・・の花は情緒があってとても好きだ、3年ほどかけて紫陽花を出来るだけ増やそうと思い立ち早速挿し木をやり始めた。紫陽花は花の咲いた枝は枯れて見栄えが悪くなるので毎年「切り戻し」を行う必要がある、近所のブラジル人は「鉄分の多い土壌は花の赤味が増す」と言っていたが「酸性土は青味がかりアルカリ土は赤味がかる」が正しいようだ。我流の挿し木方法は、まず挿し木にする茎を40センチくらいに切り葉を2枚だけ残して他の葉は全て取り除く、茎を束ねて1週間くらい水につけておき白くて細い小さな根が出始める頃、茎の半分20センチを土に埋める(20センチの穴は茎の直径の2倍の鉄棒で予め掘っておき、茎と穴のスペースを柔らかい土で埋める)、水をたっぷりやる。挿し木で増やしていった紫陽花は3年後には家の周りにびっしり花を咲かせるようになったので名前の無かったシャカラは「シャカラ・ダス・オルテンシアス(紫陽花荘)」と名付けた。
  • 132. カークリニック1981年の事だ、1年後に発売をひかえたシボレー モンザがマーケティング&セールス部門の主催でカークリニックにかけられることになった。モンザとダイレクトコンペティターになるフォルクスワーゲン パサート、フォード デルレイの3台は出来るだけ同じ条件下で比較出来る様3台ともシルバー塗装の2ドアセダン(当時ブラジル市場は2ドアが最重要モデル)が用意されメーカーがわからないようエンブレム/カーネームがはずされてある。カークリニックにはいろいろな分野からマーケッティング&セールス部によって特別に選ばれた500人程の人が招待される。私は招待された人達の反応を見るためにカークリニックメンバーとして参加していたのだが驚いた事に招待された人達に他社のデザイナーが数人紛れ込んでいるではないか!お互い見て見ぬふりをしていたのだが・・・インダストリアルスパイは防ぎようの無いものらしい。
  • 133. シボレーモンザモンザはドイツのオペル 3代目アスコナのブラジル版、1982年に1.6リッター(1.8リッターは直後に追加)のエンジンを積んだ3ドアハッチバックが発売され(3ドアハッチバックはブラジル専用モデルでヨーロッパは5ドアハッチバックとなる)、2ドア及び4ドアセダンは翌83年に追加された。路上に停車しておくと室内はかるく50度を越えてしまうブラジルではエアコンのあまり普及していない当時「クルマに乗って走り出した瞬間に車外の風がダイレクトに顔に当たる三角窓が欲しい」と言うマーケティング&セールスの要望(彼らは彼らの意見を入れたい時はいつも「市場の要望」と言う)でオペルアスコナでは取り除かれた時代遅れの三角窓がモンザにはわざわざお金をかけて付け加えられた。前後のバンパーはアスコナは1ピースバンパーなのにモンザは3分割バンパー(サプライヤーに1ピースでプレス出来る大きなプレスマシーンが無かった)になるなど車の開発にもなかなか難しいブラジルのお国事情が見えた。「Jカープロジェクト」と呼ばれたモンザの開発には私も携わったがブラジルオリジナルデザインの3ドアハッチバックのクレイモデルはいつもシルバーのダイノックフィルムを張って検討した、そのためか?このクルマのイメージはシルバーがいつまでも残る。
  • 134. ペイシュ・パパガイオ時折、食べるのがもったいないくらいカラフルで美しい魚が釣れることがある。グリーンの体にブルー、イエロー、ピンクなどが混ざるこの魚は口がオウム(パパガイオ)のような形状をしているのでペイシュ・パパガイオと呼ばれる、ペイシュは魚のこと。ペイシュ・パパガイオは口がさほど大きくないが鋭い歯があるので噛み付かれたら大変だ、釣りをしていると釣り針を食い千切られることがあるが大抵ペイシュ・パパガイオかフグ(ブラジルではバイヤクと呼ぶ)の仕業だ。釣り友達の日本人に「日本名はなんだろうか?」と聞いてみると「たぶんベラ/ギザミだろう」と言う、調べてみるとヤマブキベラに近い様だが口の形状がかなり異なるし日本のべラよりずっと丸く太っているようだ、うろこもごわごわとかなり硬い。ペイシュ・パパガイオは種類が多くそれらの多くは観賞用魚として飼われている。あまりおいしい魚ではないので釣れても海に戻してやる事にしている。
  • 135. オペルコルサ1982年、GMデザイナーエキスチェンジプログラムでドイツのオペルデザインにマネジャー教育も兼ねて3ヶ月ほど滞在する事になった。2月初旬のフランクフルト空港は零下16度という寒さで雪が降っていた、11時間ほど前に飛び立ったサンパウロは真夏で35度の暑さだったから11時間で50度も違う激しい温度差だ。空港にはオペルデザインの方がシルバーのアスコナで出迎えてくれた。滞在中オペルデザインセンターのあるリュッセルハイムと温泉のあるビスバーデンのペンタホテルを通う私の足はソリッドホワイトのアスコナ4ドアセダンで全天候タイアを履いていた。後にBMWのデザインディレクターになるクリストファー・バンケルさんがアートセンターからオペルに入社したのはこの頃でインテリアスタジオにいた、後にミニのデザインディレクターになるゲルツ・ヒルデブランドさんもアスコナスタジオで働いていたのもこの頃のこと。児玉さんのコルサスタジオには3週間ほどお世話になった、初代コルサは翌年1983年2ドアセダンと3ドアハッチバックの2モデルが発売され、翌‘84年に5ドアハッチバックが追加された、ブラジルでもシボレー コルサとして発売されたモデルだ。
  • 136. オペル カデット滞在中のオペルデザインスタジオは当時エアロダイナミクス旋風が吹き荒れ、このモデル(6代目のカデットでモデルEと呼ばれた)のデザイン開発は「エアロデザイン」に最重点が置かれていた。「 猫も杓子もエアロダイナミクス」の風の中、風洞実験に立ち会う幸運な機会を得た。まずクレイスケールモデルがスツットガードのメルセデス風洞に持ち込まれ風を当てながらデザイナーとモデラーによってよりエアロダイナミクスな方向に修正が加えられる、このデーターをオペルデザインスタジオでフルサイズクレイモデルに反映させ最終修正の為トリノにあるピニンファリーナのフルサイズ風洞実験にかける。風を当てスモークの流れとデーターとをにらめっこしながらデザイン修正を加える作業が5日間ほど延々と続く、その成果はCd(空気抵抗係数)0.32というコンパクトカーセグメントに於ける当時の最高値を得ることが出来た。1984年にカデットEとして発売され、私にエアロダイナミクスの大切さを身を持って教えてくれたモデルだ。
  • 137. オペル アスコナ400/マンタ4001982年はアスコナ400(ロスマンズ・オペル・ラリーチーム)ラリーカーを繰るワルター・ロールがWRC(世界ラリー選手権)で優勝した年だ。アスコナ400は1975年に発売された2代目アスコナ(アスコナB)の2ドアモデルをWRCのグループ4に参戦させるために400台がホモロゲーション生産され1980年のモンテカルロラリーが初戦となった。アウディーを始めとする4WD車に主導権が奪われつつあったWRCでFR(フロントエンジンリアドライブ)車が勝てた最後の車としても知られる。マンタ400は1982年に発売された2代目マンタBの2ドアクーペモデルをアスコナ同様WRCグループ4に参戦させるため400台がホモロゲーション生産された。オペルデザイン滞在中にデザインセンターの裏にあるスペシャルスタジオで開発中のイルムシャ―バージョンのアスコナ400とマンタ400を見る機会を得た。ホワイトのボディーにイエロー、グレー、ブラックが加わるカラーリングのやつだった。
  • 138. オールド500500(チンコチェント)はフィアット500「トッポリーノ」の後継車として1957年に登場した空冷2気筒500ccのリアエンジンシティーカー。キャンバストップの低価格で経済的なチンコチェントはあっという間にイタリア全土に広がり「イタリア市民の車」と呼ばれるようになった。オペルデザイン滞在中、週末は(金曜日も勝手に休みにしてしまうと3日間)ディスカバーヨーロッパの精神でたいてい近隣の国へ車で出かけていた。ルクセンブルグを通ってイタリアに出かけた時に良く見かけたのがチンコ チェント、とにかくかわいい!!、5年前の1975年に生産中止となった車だがイタリアではまだいたるところで見かける。小さな空冷2気筒エンジンがバタバタ・・・と乾いた音を立てながら元気に走り回る。ホワイト、イエロー、レッドなどの明るいソリッドカラーのチンコチェントは近代的な都市にも農村の田舎道にも良くフィットする「イキ」なコミューターだ。3~4台並んで駐車しているチンコチェントを何度も見かけた、なんとも微笑ましい風景だ。
  • 139. フィアットパンダイタリアではチンコチェントと共に多くのパンダを見かけた。70年代に起きた世界的なオイルショックはオートモーティブ界へも大きな影響を及ぼし各社が経済性の優れた小燃費ミニカー/スモールカーの開発に躍起になっていた。日本でも1974年の第1次オイルショックの時はスパーマーケットから砂糖やトイレットペーパーが消えてしまったのを思い出す。パンダは126/127の後継車でジウジアーロ(イタルデザイン)デザインによるプリミティブで合理的なミニカーだ。開発及び生産価格を最低限に抑える為ウインドーはすべて板ガラスによるシンプルで平面的な四角い機能的な箱型エキステリアデザインとパイプフレームにキャンバスを張ったキャンバスシートの簡素なインテリアデザイン・・・これ以上シンプルには出来ない「ワリキリ」の良いデザインと言えるだろう。パンダ35(652cc)、パンダ45(903cc)は廉価で丈夫なイタリアのゲタ車(大衆車)、ローマの街中をウジョウジョ走っていた。
  • 140. メルセデス Gクラスオペルデザイン滞在中は温泉とカジノのあるヴィスバーデン市のホテル「ペンタ」を宿としていた。雪の降る真っ白なホテルの駐車上にダークグリーンのGクラスが停まっていた、まさに真っ四角なクロカンだ!文句無くカッコ良い!ストレートでマッチョな男性美だ! Gクラスはもともと軍用車用に開発された機能性と走破性を最重視するヘビーデューティーの本格的オフロード四輪駆動車。徹底的に頑丈でゴッツイGクラスはメルセデスSUVの最高級モデルとして君臨する。GはGELANDE WAGEN(ゲレンデーヴァーゲン)の略称で1979年に発売され、5人乗り3ドアのショートボディーと7人乗り5ドアのロングボディーバージョンが用意される。プロが喜ぶ普遍的でクラシカルなジャーマンビューティーを感じさせるGクラスは他のSUV/オフロード車とは異なる重厚性と高貴なイメージを漂わせる。
  • 141. アクアマリンアフリカ大陸についで2番目に古いと言われる南アメリカ大陸ではダイアモンド、サファイア、エメラルド、ルビー、トパーズ、アメジスト・・・などの宝石を豊富に産出する、中でもアクアマリン(海の水)はブラジルを代表する深いブルーの透明石で「ブラジルのシンボル石」とも言われる。淡いブルーから濃いブルーまで数え切れないほどのブルーバリエーションがあるが一般的に濃い方が高価値とされる。ブラジルに移り住んで数年後の1982年に初めて日本に帰国した時、母や妹に持ち帰ったのがアクアマリンだった。宝石にはまるで知識が無かったのだがお店で見てややグリーン味を帯びた透明なブルーの美しさにすっかり魅惑されてしまった。日本では3月の誕生石(母は3月生まれ)、そして魚座(私は日本暦ではいのしし、西洋暦では魚)の星座石だと言う。
  • 142. ビクトー誕生次女エリカが産まれてから10年目に長男ビクトーが産まれた。サントアンドレ市の病院で娘達と共に出産を待っていた、出産の数時間前になって医師が「赤ちゃんが座ってしまった」と言う。お腹の中で突然180度回転して「逆子」のポジションになってしまったので急遽帝王切開しなければならない、下半身麻酔をするのでOKのサインをしてくれと言う、出産時にサインをするのはこれで2回目だ! 注射とか麻酔の嫌いなヨメさんは「半身麻酔」と聞いて真っ青になってしまった。医師が「奥さんを元気付けるため一緒に出産に立ち会え」と言う、あの時は女性というのは男性よりもずっと大変なんだなとつくずく思った。ヨメさんは「半身麻酔」をかけられた時は死ぬかと思ったが無事に出産出来てよかったとハラハラ泣いていた。ヨメさんを安心させるため翌週1人で病院に出かけパイプカットの手術を受けた、これでめでたく?「打ち止め」だ。
  • 143. フィアット ウノフィアット車はGMのテストコースで乗り比べ車として何度か運転した事はあったが自家用として所有した事は無かった。試しにレッドのウノ1.3リッター5ドアハッチバックを購入してみた。ブレーキの効きも含め一般道路での走りっぷりになんとなく安定感が足りない…というのが第1印象だった、案の定サントスからサンパウロへ向かう山道の下り坂のかなりきついカーブで曲がりきれず(今まで乗っていたGM車は同じスピードでちゃんと曲がれたのだ!)お尻を激しく振って半回転しガードレールにお尻から激突してしまった。ガードレールが無ければ百何十メートルかの谷底に転落して一巻の終わりになるところだった。プラスチックのリアバンパーは何処かへ飛んで行ってしまい、ボディーサイドにかなりのダメージを受けたがエイヤッーと引っ張ったり蹴ったりしてタイアに接触しているホイルアーチを元の位置近くに戻し、ズルズル走行でどうにか自宅までたどり着くことが出来た恐ろしい思い出がある。
  • 144. キャディラック アランテ‘70年代半ばの第1次石油危機以降、アメリカオートメーカーにもダウンサイジング化の波が押し寄せ「大きいことは良い事だ!( Bigger is better!)」のアメリカンコンセプトが揺るぎ始めた。GMのラグジェリーカー キャディラックもついにミディアムサイズのラグジャリーロードスター(コンバーティブル)アランテを1986年に登場させた。当時ヨーロピアンデザインがアメリカ大陸に影響を及ぼし始め(アメリカンデザインが自信を失い始めた)、アランテもイタリアのピニンファリーナのデザインとなった。メルセデス ベンツSLをダイレクトコンペティターとするGMの最高級ブランドのロードスター アランテはピニンファリーナで生産されジャンボ機(ボーイング747貨物機)でデトロイトに空輸されるという超ゴージャスなお膳立てがされ、1989年にはハードトップモデルが追加された。ダウンサイジングされたアランテは大いに話題を振りまいたがキャディラックの期待に答えることなく商業的にはあまり成功する事が出来なかった。ボルドー味を帯びたメタリックレッドが一番似合ったように記憶する。
  • 145. ランチア デルタHF/インテグラーレデルタHF/インテグラーレは1979年に登場した四角い箱型の5ドアファミリーハッチバックスモールカー デルタをベースに4WD(全輪駆動)を備えた5ドアホットハッチバック、1987年にWRC「グループA(グループBは規定がほとんど無かったためマシーンが超度に凶暴にチューンアップされ危険を伴い、1986年のドライバー/コドライバー事故死発生を機に排除された)」に参戦した。「グループAカー」の規定は連続した12ヶ月以内に5000台以上生産された4座席以上の量産車でパワートレイン、メカニズム、ボデイー外観は基本的に量産車と同一でなければならない・・・と殆ど量産車に近い安全を重視したものとなった。デルタHF4WDは1987年、カンクーネンをメインドライバーとしていきなりマニュファクチュラータイトルを獲得し1992年まで6年連続マニュファクチュラータイトル獲得の快挙を成し遂げた。デルタはランチアが一般市場に於いてもラリーに於いても最高に成功を収めたモデルとして記憶に残る。「ホワイトボディーにマルティーニレーシングストライプ」のデルタHF/インテグラーレは最高にカッコいい!
  • 146. アイルトン・ セナF-1ワールドチャンピオン3回(1988、‘90、’91年)に輝くブラジルの大英雄で全世界の永遠のアイドルでもある、私もアイルトン・セナの大ファンだ。ホワイト&レッドのマクラーレンホンダMP4/5で無敵のマクラーレンホンダ時代を築き「地上最速の男」と呼ばれた。アイルトンが初めてチャンピオンになった1988年、友人とF-1観戦のためにチャーターされた夜行バス(サンパウロから直通)に乗ってリオデジャネイロのジャパレパグアレース場に出かけた、バスはもちろんアイルトンファンで満載、一晩中ドンちゃん騒ぎでほとんど一睡もしなかった、カーナンバー12のアイルトンは予想どうりポールポジションを取りながらもスタート時のマシーントラブルでスペアマシーンに取替え、最後尾スターとなってしまった。最後尾でスタートしたアイルトンはブッチ切り走行で満場を興奮させたが無念にもスタート時のペナルティーを受け失格となってしまった。レースはチームメートカーナンバー11のアラン・プロストが優勝した。ロータスホンダの中島悟が6位に入賞した記念すべきレースだった。
  • 147. マキシオントラクター1987年にGMを退社し、SRスペシャルビークル社でデザインディレクターをやることになった。ブラジル第一のフォードディーラーSR(ソウザ・ラモス)社の系列でフォードからライトピックアップトラックF1000のエンジン付きシャシー(Aピラーとフロントウインドーだけは着いている)を買い、SRスペシャルビークルでデザイン&エンジニアリング開発したニューモデルをFRPで生産するのが主な仕事。1988年のある時、マキシオンから農業用トラクターとフォークリフトのデザインを依頼された、世界的に有名な農耕機器会社マッシーファーグソン(通称MF)は本格的なブラジル進出を機会にブラジル専用のマキシオンブランドを新設し、新時代の農耕機器会社にふさわしいコーポレートカラーとして明るいイメージのブルーを選択した。トラクターとフォークリフトをデザインし実走可能のランニングプロトタイプを制作したのは初めてだったがどうにか無事にまとまりマキシオン社のあるリオグランデ州でこのトラクターが農耕機器デザイン賞を受賞するという栄誉を得た。
  • 148. プジョー 505ブラジルのような発展途上国でデザインをやっていると時折おかしなプロジェクトが飛び込んでくる。「プジョー505のピックアップトラックをでっち上げよう」プロジェクトもそのうちの1つだ。505は504の後継車として1979年に登場し、アルゼンチンのブエノスアイレス工場でも生産されているFR駆動方式のミドルカーで5ドアセダンとステーションワゴンがある。当時アルゼンチンは国内生産保護のため輸入車は厳しく規制されていたため、フォード、フィアットなどと共にプジョーもアルゼンチンに生産基点を設けた。プロジェクトは505の5ドアステーションワゴンをシボレー エルカミーノ風の2ドアスポーツピックアップに創り上げようというわけだ。早速ブエノスアイレスにあるアルゼンチンプジョー社(生産はセヴェル社)を訪ねた。ブエノスアイレスは同じ南米の大都市でもサンパウロに比べなんとなくヨーロッパの雰囲気が漂う素敵な都市だ。ミーティングの後工場の視察見学に行き、生産過程の505を注意深く見る。このプロジェクトはアイデアスケッチの末、デザインはほぼ決定とまで行ったのだがやはり金がかかりすぎるという理由で残念ながらオシャカになってしまった。
  • 149. ホンダ CRX(2代目)1989年、ホンダ CRXの2代目が日本で発売された。「FFライトウエイトスポーツ」を謳った初代CRXのファーストバッククーペスタイルを踏襲しながら、ホンダが積極的に取り組んできた「台形デザイン(前/後方から見た時の踏ん張りの利いたプロポーション)」の究極とも言うべき2代目CRXは地面にベタッと張り付いた力強いフォルムを見せる、サスペンションはスポーティーに全輪ウイッシュボーンでかためられ、後方視界確保のために備えられたリアエキストラウインドーがユニークなデザインエレメントとなる、CRXは私にとって数あるホンダ車の中で1番スポーティーな「ホンダルック」を主張しているように思える。デザイン仲間のパウロさんはCRXに完璧に惚れ込んでしまい、当時ブラジルでは国内オートメーカー保護/育成のためクルマの輸入は全面的に禁止されていたにもかかわらずソリッドブラックのCRXを宝石のように大切に所有していた。どこでどうして手に入れたのだろう?
  • 150. パパガイオ/アラーラ/ツカーノ熱帯アマゾンに生息するカラフルでブラジルイメージを発散する大型鳥を3種挙げると、パパガイオ、アラーラ、ツカーノとなる。友人から譲り受けた「ロロ」という名前のグリ-ンのパパガイオ(一番ポピュラーなオウム)は当然ながらポルトガル語しかしゃべらなかったが、わけのわからない歌をいつも歌っていた、「ロ~ロ~」と呼ぶとクア~とかクエ~とかちゃんと返事をするので子供達の人気者だった。レッドのアラーラ(パパガイオより大きなオウム)は近くの市営マーケットの庭園にあるケージに4羽いたので子供を連れてよく見に行った、ギャーギャーと大きな声でワメくのみで何もしゃべらなかったが、羽を広げてバサバサと飛ぶ時に見せるブルーやイエローの極彩色がレッドに混じってとてもダイナミックで美しい。アマゾンのパンタナル(低湿地帯)に生息するツカーノはブラックの体にカラフルで大きな嘴を持つトロピカルムード満点の鳥、いずれも子供達の人気者だ。
  • 151. リオスター エキスプレス 47「とにかくモダンでカッコ良いエキスプレスボートにして欲しい」がリオスター社オーナーのデザインキーワードだった。水に直接触れる船体の下半分(カスコ)はアクアダイナミクスの専門家が水と相談しながら造り出すフォルムなので私の担当は船体の上半分(コンベイス、デッキ、ナビゲーションエリア、インスツルメント・・・等)、18ヶ月後にはマイアミのボートショーに出展するという超短スケージュール。いくつかのスケッチから承認された(プレゼンテーションはオーナーがやって来てスケッチ群の中から「これがいい」と指をさしてそれでおしまい!)デザインは早速15メートル(47フィート)近くもあるフルサイズの木型モデルを作ることになった。私に12人の船大工が与えられた、驚いたのは12人が12人ともポルトガルからの移住者もしくはその子孫達、木造船の制作はかつて大航海時代に世界を制覇したポルトガル人の大得意な分野なのだ。それが幸いしてかモデルはスケジュールどおりの完成し、雌型どり、ジェルコート塗布、FRPラミネーション、インテリアデコレーション、エンジン取り付け(スカニアの675馬力ディーゼルエンジンx2=1350馬力)・・・等18ヶ月後には予定どうり全てを完了しマイアミに向けて出航していった、このパワーボートの名はリオスターエキスプレス47、ホワイトの船体にブルーとレッドのアクセントを加えた。
  • 152. シトロエン BX1991年9月、ポルトガル移住の第1歩、リスボン空港にファビオさんと彼の愛車シトロエンBXが我が家族(私とヨメさんと長男ビクトー)を迎えてくれた。ファビオさんは私がブラジルに住んでいた時奥さんのエバさんを伴いブラジルを旅行され、サンパウロでは我々をたずねてこられた。エバさんが私のヨメさんと同郷で幼馴染という間がらなのだ。BXはベルトーネ(マルチェロ ガンディーニ)による直線を基調にし、ロングホイールベースを強調するデザインでGS/GSAの後継車として1982年に発売が開始された。サスペンションはシトロエンの代名詞ともいえるハイドロニューマティック、スムーズで快適な乗り心地を誇る車高自動調整システムが備わる。インテリアはユニークな1本スポークステアリングや大きめでゆったりしたシートがやや高めのポジションに納まりシトロエンを主張する。BXは2CV、DSと並ぶシトロエンの歴史に残る大ヒット作となった。
  • 153. シトロエン ZXブラジル在住時代にすでにフリーランスデザイナーとして独立していた私はヨーロッパで仕事をしてみたくなり1991年9月にポルトガルのリスボンに移り住んだ。前々から次はシトロエンに乗ってみようと思っていたので早速シトロエンディーラーを訪れた、ポルトガル語は16年間のブラジル生活ですっかり覚えたので何の問題も無い、セールスマンに「今すぐ乗って帰れるライセンスがついているクルマはないか?」と聞いたら「えっ?」と驚いて、レッドのZXが1台あるという、5分も経たないうちに私のZXになった、セールスマンはせっかちでおかしな日本人だと思った事だろう。ZXはフロントのサスペンションがシトロエン特有のフィールを持つものではなく、プジョー306と共有のマクファーソンストラットの普通のサスペンションになってしまっていた、少し残念。ヒップポイント(シート位置)が高めで見晴らしの良いドライビングポジションは期待どうりのフランス感覚を漂わせる、ZXはシトロエンにしては癖の無い万人向けのデザインだ。
  • 154. 大西洋の初日の出ポルトガルは国土の西側が北から南まで大西洋に接している、大西洋は深みのあるダークブルーの水をたたえる。私は毎年元旦の「初日の出」は浜辺で迎える習慣になっていた、ポルトガルに移り住んで初めての元旦も習慣どうりエリセイラという自宅から25キロほど離れた海辺の町に朝早く暗いうちから1人で出かけ砂浜に座り寄せる波の音を聞きながら初日の出を待っていた、1年の始まりのこの待ち時間はとても厳粛で心が清まる気がして身がしまる。ところが???である、何たる事か?お日様は海の地平線からではなく反対側の背を向けて座っていたアパート群の上に金色の太陽が周りを赤々と染めながら出始めたではないか!16年間南半球で生活してきた私は北半球の方角を読み違えて方向音痴になってしまっていたのだ。それにしてもアパートを背にしての初日の出などは厳粛どころか絵にもならない、今年はおかしな年になりそうだ。
  • 155. シトロエン トラクシオン アヴァントラクシオンアヴァンはシトロエン初の前輪駆動車でフランス語で前輪駆動という意味のトラクシオンアヴァンがそのまま車名になってしまった。1934年から1957年にかけて生産された大衆車でこちらのクラシックカーショーではよく見かける車。トラクシオンアヴァンシリーズは4気筒エンジンの7CV/11CVと6気筒の15CVがあるが11CVが一番ポピュラーと言える。マフラ修道院の教会前で教会から出てくるウエディングカップルを待ち受けているブラックのトラクシオンアヴァンはシトロエンのエンブレム「ダブルシェブロン」がグリルに大きくアピールするフロントからボンネット、サイドフェンダー、リアーまで飾り付けられた真っ白なベールがなんとも美しい対比を見せている、なぜかマフィアの結婚式の雰囲気が漂う。このトラクシオンアヴァン11BLは1946年式1900cc56馬力で今でも結婚式用のレンタカーとして活躍している。トラクシオンアヴァンはフランスの軍用車としてはもちろんのことドイツの軍用車としても活躍した実用性と汎用性の高い車として名高い。
  • 156. オペル フロンテラアメリカ及び日本では1980年代にすでに大きな市場を築いていたSUV/4x4はヨーロッパでは合理的でファミリーイメージのモノスペース(ミニバン)に推され気味で精彩を欠いていた。1990年代初頭のヨーロッパSUV市場はヨーロッパオートメーカーはランドローバーぐらいのもので三菱 パジェロ、スズキ ヴィターラをはじめとする日本車が優位を占めていた。当時オペルのラインアップにはSUVが無かったので同じGMグループのいすゞのSUVをオペルラインアップに加えることになった、オペルにはSUV/4WDのノウハウが無かったことと開発時間の短縮、開発経費の削減が主な理由だ。いすゞの2代目ミュー(ショートホイールベース3ドア)とウィザード(ロングホイールベース5ドア)をOEM車(後にイギリスのヴォクスホールで生産された)としてそれぞれフロンテラ スポーツ、フロンテラ エステートの名で 1991年にSUV市場に参入した。
  • 157. WRC日本車の黄金期WRC「グループA」において1987年以降、圧倒的な速さ強さで敵を寄せ付けなかったランチア デルタHF/インテグラーレを1990年ついにカルロス・サインツの繰るトヨタ セリカGT-FOURが打ち負かした(カルロス・サインツはドライバー・タイトルを獲得したがマニュファクチュラー・タイトルは引き続きランチアが6年連続で獲得した)。そして1993年、トヨタはセリカ ターボ 4WDで念願のマニュファクチュラータイトルをランチアから奪い取った、勢いを得たトヨタは翌1994年もマニュファクチュラータイトルを獲得、1995~7年の3年間はスバルがインプレッサで、1998は三菱がランサーエボルーションで,1999年は再びトヨタがセリカ GT-FOURで7年連続して日本が独占し日本ラリーカーの黄金期を築いた。しかし2000年以降はプジョー、シトロエン、フォードなどの台頭で日本勢はすっかり影を潜めてしまった。
  • 158. ルノーツインゴ1992年のパリショーでデビュー、翌‘93年3月に発売が開始されたツインゴはコンセプト開発段階からカラーを重要なデザインファクターとしてとらえ、ミニカーの「カラー革命」をもたらしたクルマとして記憶に残る。3ドアハッチバックのボディー、1.2リッター60馬力のエンジン、タイアサイズ、インテリアなどはすべて単一仕様にし、エキステリアカラーだけが選べる(カラーが仕様の役目を果たす)、色彩が仕様そのものという新しい「カラーストラテジー」だ。カジュアルなモード、ファッション性をアピールするソリッドカラー中心の7色のボディーカラー(ホワイトの無い勇断)で大ヒットしたツインゴはカラーがセールスの大きなファクターになりうることを証明した良い例。ヨーロッパではクルマ購入時のモデル選定は50%以上が女性の意志によることも忘れてはならない、女性は男性よりもカラーやムードに敏感なのだ。
  • 159. ノーサ・セニョーラ・デ・ファティマファティマ市(リスボンの東北約100km)には「ファティマの奇跡」という聖母マリアの出現した話が伝わる。1917年、オリーブ畑にいた3人の牧童の子供フランシスコ(9歳)、ジェシンタ(7歳)の兄弟といとこのルシア(10歳)の前に聖母マリアが現れた、その奇跡がもとでファティマはカトリックの聖地として認められ壮大なバジリカ(大寺院)が建てられ聖母マリアが祭られる。世界的に知られる聖地ファティマは年間を通して世界中からのカトリック信者や旅行者が耐えないが毎月13日は多くの巡礼者が訪れる、聖母マリアが最初に現れた5月13日は特別で教会中央広場は何十万もの人で埋め尽くされる,この晩訪問者全員が手に持つろうそくの燈の下で行われるミサは荘厳で幻想的な世界を描き出す。私はヨメさんと年に3回はファティマを訪れる、ヨメサンは生まれながらのカトリック教徒、私はカトリック教徒ではないのだが聖母マリアの前にひざまずくといつもなにか救われたような気持ちになる。
  • 160. リスボンのチンチン電車エレトリコもしくはボンデ(ボンディーニョ)と呼ばれて市民の足となっているリスボン市電は1901年に走り始めた(ポルト市電はそれより6年前の1895年)、今では市民の足であると同時に観光客のアトラクションとして元気に走り回っている。リスボン市街地の急坂の多い石畳の狭い路面を小さくてかわいいおもちゃみたいな2軸単車(旧型車)が線路に車輪をこするようにきしませながら走り抜ける、両側の家屋/建物に洗濯物がヒラヒラと吊り下がる路線にイエロー&ホワイトやコカコーラカラーに塗られたエレトリコがチンチンチンと警笛を流しながら走る風景はリスボンならではのことだ。エレトリコ/トラムは地球温暖化防止、地球資源保護、環境保護、騒音問題・・・などに対応する都市公共トランスポテーションとして近年世界中で見直され始めている。
  • 161. リスボンのタクシー運転が荒い事で知られるポルトガルのタクシー、乱暴な運転で日本人客を震え上がらせたという話をずいぶん聞く。メルセデスが圧倒的に多いリスボンのタクシーはたいがいリアシートがヘタッているのでいつもフロントシートに座る事にしている。日本人と思われると料金に上乗せさせる悪いドライバーが結構いる、助手席に乗り込みこちらからポルトガル語で「リスボンに住んでいるんだよ」 とか言うとすぐ友達みたいになってボラれる心配は無い。ポルトガルは長い間マカオ(現在は中国領)を植民地としていたので中国人とのなじみが深く、「中国人ですか?」と聞かれることがたまたまある、その時はいつも「マカオから来たんだよ」と答える事にしている。伝統的なブラックボディーにグリーンのルーフのカラースキムは1990年代にヨーロッパの奨励カラーとしてベージュに統一されてしまったが2000年代に入りまた元の伝統的なブラック&グリーンに塗られたタクシー(特に個人タクシー)が見られるようになっている。リスボンの町並みにはブラック&グリーンの方がよく似合う。
  • 162. カウサーダ・ ポルトゲーザカウサーダ・ポルトゲーザは「ポルトガルの敷石道」のことで、モザイク・ポルトゲーザとも呼ばれる。広場や路地、歩道・・・などに見られるポルトガル特有の石畳で一般的にはブラックとホワイトの石で幾何学模様、抽象模様、波、鳥、魚・・・など様々なパターンがデザインされる。5~6センチ四方ぐらいにカットされたブラックやホワイト(実際にはそれぞれの地域で産出する石が使われるので地域によってカラーコンビネーションが異なる)の石を一つ一つ掌で先の尖った金槌で割りながら形を整え木製のパターンテンプレートに従って模様を造っていく、石と石の間は砂で埋め固められる、砂は吸水機能の大切な役目を担う。約400年もの間ポルトガルの植民地であったマカオにもカウサーダ・ポルトゲーザが見られるが石はすべてポルトガルから運ばれたと言う。
  • 163. バルセロスの黒い雄鶏ポルトガルを訪れる日本人観光客が必ずと言っていいほど持ち帰るのがバルセロスの黒い雄鶏だ。「バルセロスのガロ(雄鶏)伝説」 としてポルトガル北部バルセロスに伝わる話、スペインの聖地サンチアゴ・デ・コンポステラに巡礼の男がバルセロスの町で窃盗の罪に問われ、処刑される事になった、男は裁判官の家に無実の罪を訴えに行った、その時裁判官の家では 丸焼きの雄鶏を囲んだ晩餐会の最中で男は丸焼きの雄鶏を見ながら「処刑執行の瞬間この雄鶏を鳴かせて無実を証明します」と言った、裁判官は男の話などまるで信じず絞首台に送ってしまった、すると丸焼きの雄鶏が立ち上がりコケコッコ―と鳴き出したので裁判官はすぐに男を釈放した、その後男はバルセロスを訪れ聖母マリアと聖サンチアゴを讃える十字架を建てたという伝説、16世紀のお話だが今では黒い雄鶏は「真実の証」のお守りとしてポルトガルの代表的な土産物となっている。
  • 164. アズレージョアズレージョはタイルのこと、古い大きな庄屋や王宮、教会などを訪れるとポルトガル特有のブルーとホワイト2色のみで描かれたタイル絵を見ることが出来る。もともとは日本や中国の「青い絵付け磁器」に影響を受けたといわれ16世紀頃アラブ人によってイベリア半島経由でポルトガルに伝わったそうだ。アズレージョの語源はアラブ語のAL・ZULAIJで「スムーズに磨かれた石」という意味、17世紀に入るとポルトガル国内でいろいろと工夫されアレンジされたポルトガル特有のオリジナルなスタイルを持つ装飾タイルが生まれ始めた、カラーは基本的にブルーとホワイト2色のみなので「アズレージョ・アズー(青の装飾タイル)」として国内はもとよりヨーロッパ市場にも入り始めたという。イラストは自宅の真ん前にあるカペーラ(小さな教会の意味、静岡に住む私の姪はここで結婚式を挙げた)の壁にかかるアズレージョ・アズー, このカペーラはノッサ・セニョーラ・ドス・レメディオス(薬の聖)と呼ばれ「体を守る神/健康の神」として崇められている。
  • 165. UMMジープポルトガルに移り住んでの初仕事はUMM社の4x4ビークル、アルター(ALTER)のニューモデルのデザインだった。アルターはフランスのオーバーランド4x4ジープをベースにして生産された真四角で無骨なジープ、プジョーの2.5リッターディゼルエンジンを積んだアルターはシンプルで頑丈なうえ耐久性に優れているのでポルトガル及びスペインの軍用、警察、消防などに多く使われた。ニューモデルはフルモデルチェンジなのでプロジェクト日程とデザインプロセスを説明して「クレイモデルはどこで造ろうか」と質問すると「クレイって何だ?」という答えが返ってきた???(クレイはモデリング用の高質油性粘土)。現行のアルターは鉄板折り曲げパネルをつなぎ合わせた様なパキパキの造形なのでクレーなど要らないわけだ。とりあえずドイツから400kgほど急輸送してクレーモデルが出来上がる、デザイン承認が取れて実走可能なFRPモデル制作に取りかかった時点でプロジェクトが突然キャンセルされてしまった。アルターはニッサンのSUV パトロールと同じ工場で生産されていたがニッサンがパトロールの生産を突如スペインに移したので少量生産のアルターのみでは工場稼動が維持出来ず現行アルターが生産中止の止むなきに至る、残念なプロジェクトだった。
  • 166. ベラドンナ(ポルトガルの彼岸花)ベラドンナは野生の球根植物なので思わぬところで不意に出くわす事がある、地中からいきなり花茎が出て輪状の花を咲かすので日本の彼岸花を思い出させる。自宅の真ん前にある教会の庭にも見られるベラドンナは「美しい婦人」という意味で正式名はアマリリス・ベラドンナ、原産は南アフリカだそうだ。初夏に地表に現れニョキニョキと50センチほどの高さにまで伸びる花茎はパープル味を帯びたグリーンで彼岸花よりかなり太く力強い。花茎の先端にアマリリスに似た大きな明るいホワイト/ピンクの花を美しく咲かせる、開花時には葉が無く花と茎だけなので「ネイキド レディー(裸の婦人)」とも呼ばれる、ネイキド レディーとはまさにぴったりのイメージだ。秋の終わりに花が散ると葉が出てきて冬と春を葉ですごし初夏に葉が枯れ地中の球根のみとなる、そしてやがて花茎を出す周期を繰り返す面白い花だ。
  • 167. アカンサスの白い花クルマで郊外をドライブ中に道端で野生のごとく群衆してパープル味を帯びた可憐な白い花を咲かせているアカンサス見てびっくり、早速停車して近くで畑仕事をしていたおじさんに頼んで3株掘り起こして分けてもらった、私の大好きな植物でアザミのようにギザギザでツヤのあるダークグリーンの常緑葉の付け根から花茎がニョキニョキと1メートル以上も伸び、淡いパープル味を帯びた美しいホワイトの花を咲かせる、おじさんは「何の役にも立たない雑草で増えて増えて困るからいくらでも持っていけ!」と言った。アカンサスは地中海沿岸原産で「美術/芸術のシンボル」としてアカンサスの葉がギリシャの古典建築物の頭柱(コリント式)などのデザインモチーフとして使われている、ギリシャの国花でもある。東京芸大の学章はアカンサスの葉に芸大の文字がアレンジされている。
  • 168. ハマー H2ハマーは元来軍用車(HUMVEE)としてAMジェネラル社が開発したものだが、一般市場向けに軍用車のイメージをそのまま受け継いだ市販車としてハマーH1が1992年に登場した、現カルフォルニア州知事アーノルド・シュワッツネーガが野性味溢れるハリウッドのアクションスターだった頃に乗り回していた車としても知られる。H2はGMのフルサイズピックアップトラック シボレータホのプラットフォームをベースに、好評だったH1の四角いアグレッシブなスタイリングを受け継いだ都会的なフルサイズSUVでGM傘下のハマーブランドとして2000年のデトロイトショーで「Lower Priced Hummer]としてソリッドイエローエキステリア&ブラウンインテリアのプロトタイプがお目見えし、1993年に発売が開始された。H2が実走するのを初めて見かけたのは1994年、カルフォルニアのフリーウェーだった、圧倒的な存在感は「これぞアメリカン!」、このデザインは良し悪しは別として日本やヨーロッパではとても真似が出来ない。原油価格高騰とディーゼルエンジンのエミッション規制のあおりをもろに受け、「環境汚染の大悪玉」にされ、2007年に生産が打ち切られた。
  • 169. ビーニョ ベルデレッドワイン、ホワイトワイン、ポートワインの陰に隠れ、一般的にはあまり知られていないグリーンワインはポルトガルでビーニョベルデ(ビーニョはワイン、ベルデはグリーン)と呼ばれる。ポルトガル北西部のドーロ川とミーニョ川に挟まれた地域が特産地とされる。ビーニョベルデはレッドワイン、ホワイトワインに比べ、酸性の高い超微発泡ワインでシャンペンの様に泡が立つのでスパークルワインとも呼ばれる、グリーンカラーのワインなのでグリーンワインと一般的に言われているがポルトガル語のベルデはグリーンの他に「若い」 という意味も持ちビ-ニョベルデは 「若いワイン」 と訳す方が正しい、ストックなどせずに( 酸性が強いので酸化し易い上に超微発泡なので時間が経つと泡が消えてしまう) 新鮮で「若い」うちに飲んだ方がおいしいというわけだ。フレッシュ&フルーティーな飲みやすいワインだ。
  • 170. フィアット プント80年代後半から90年代初頭にかけてイタリア自動車界は低迷を続けフィアットは深刻な経営危機に襲われていた(トヨタをはじめとする日本のいくつかのオートメーカーは自粛してトリノオートショーへの出展を見合わせる程だった)。初代プントはその様な厳しい経済危機の中、ウーノの後継車として1993年に登場したハッチバックスモールカー(3ドア&5ドア)、「失敗したらフィアットが潰れる」という宿命を持つ失敗の許されないモデル。柔らかいファミリーイメージでまとめられたジウジャーロデザインによる魅力的なスタイリングのプントは大ヒットし、たちまちベストセラーとなる。栄誉ある「ヨーロピアン カー オブ ザ イヤー賞」を獲得したプントは潰れかけたフィアットの「救命主」となった。プントは小型車セグメントには当時全く見られなかったゴールドを新しいジャンルのテーマカラーとして「ゴールドイエロー」をアピールさせ、オートモーティブ「カラー革命」の一端を担った忘れられないモデルでもある。
  • 171. トレボ(カタバミ)日本では古くから文様や家紋(根が絶えない=家が絶えない)として親しまれて来ているカタバミ(片喰)はポルトガルでは全土どこにでも見られるポピュラーな多年草の雑草でトレボ(トレは3で三つ葉を意味する)と呼ばれる。3枚の葉はハート形で同じ三つ葉でも丸形の葉を持ちホワイトの花を咲かせるクローバーとは種類が異なる、球根で増え繁殖力が強く、庭園などに生え始めると取り除くのがなかなか厄介なので(茎や葉を掴んで引っ張ると千切れてしまい球根が残るのでまたすぐ生えてくる)農家では邪魔者扱いされる。春先に明るいイエローの花を咲かせ、ところによっては丘全体がまっ黄色に染まりハッとするほど明るい広大な光景を見せてくれる、夜になって暗くなると花は下を向いて小さく閉じるので昼間の鮮やかなイエローフィールドは夜にはダークグリーンフィールドに変幻する。
  • 172. 雪ノ下静岡の両親の家の庭の池の周りに多くの雪ノ下が植えてあり、葡萄枝に小さな葉をつけて水面近くまで延びていた。円形のダークグリーンの厚い葉(裏はレッドパープル味を帯びる)の表面は柔らかい毛で一面が覆われる、葉の間から伸びた長い花茎の上部にかわいい小さなホワイトの花を咲かす、子供の頃母が時々葉を天ぷらにして食べさせてくれたのを思い出す。16年間住んだブラジルでは一度も見かけなかったがポルトガルでは一度だけ見た事がある、通りがかりのパン屋さんの入口の庭に小柄な雪ノ下(ミニ雪ノ下?)がか弱い小さな花を咲かせていた、両親の庭の大きくてツヤツヤした立派な雪ノ下を懐かしく思った。欲しくなったのでいくつかの花屋さんや植木屋さんで探したのだがどこにも見つからない、次回日本を訪れた時には是非持ち帰りたいと思っている。
  • 173. スポーティングポルトガルでは迷わずリスボンのスポーティングのファン(ブラジルのパルメイラスと同じグリーンのチームカラーという単純な理由)となる、スポーティングはポルト、ベンフィカと並んでポルトガルを代表する3大フットボールチームの1つ、正式名はスポーティング・クラブ・デ・ポルトガル(SCP)、マスコットはライオン(ポルトはドラゴン、ベンフィカはイーグル)、チームカラーはグリーン(ポルトはブルー、ベンフィカはレッド)。2004年にポルトガルで開催されたヨーロッパ選手権大会の時建て換えられたスポーティングスタジアムは6万人(安全と快適性を考慮に入れて「立ち席」は無い)が収容できる立派なものだ。スタジアムは自宅からクルマで20分足らずなのでスポーティングのユニフォームとマフラーを身につけて時々友人と応援に出かける、翌日は決まって声がおかしくなる、ブラジル人の熱狂的な応援も凄いけどポルトガル人も凄い!何もかも忘れて熱狂できるスタジアムの雰囲気がたまらなく好きだ。
  • 174. ランチア Y(イプシロン)ランチアはフィアットグループに於けるラグジャリーブランドとして位置付けられる、Y(イプシロン)はランチアがフィアット プントをベースにランチア風にオシャレにプントよりやや高級に味付けした3ドア(5ドアはあえて用意されない)ハッチバックスモールカーで1994年に発売された。Yの販売向上戦略に「カレイドス(万華鏡)」と呼ばれるエキステリアカラーシステムが使われた、「カレイドス」カラーシステムは12色のスタンダードカラーに加え、クライエントは100色のオプションカラーから個性に合わせたパーソナルチョイスが出来る、チョイスしたカラーは確認のためミニチュアカーに塗装されてクライアントに届けられる、オプションなのでエキストラフィーを取られるのにもかかわらずクライアントは大喜びして届けられたミニチュアカーを撫でながら実車の納入を待ちわびるというというなかなか味のある戦略だ。
  • 175. ナンテン長女夫婦(理奈とアントニオ)が古い庭付きの家を買い1年半もかけて彼等好みのモダンな家に改築した、日本で生まれた長女は日本人であることに大変な誇りを持っている、私はどういうわけかポルトガルに帰化し「南蛮人」になってしまったが長女は帰化を拒否し相変わらず日本人のままだ。彼女が庭に「典型的な日本の木を植えたい」と言う、そこで植木屋に出かけ日本のイメージを代表するカエデ、サツキ、アオキ、ヤツデ、ナンテンを何本か改築祝いに庭に植えてあげた、「ナンテンが一番日本みたい」と言う、日本ではナンテンは「難転」にあやかり縁起の良い木として古くから玄関先や庭に植えられてきたことや静岡の家の庭にも植えてあった事などを話してやった。こちらのナンテンは見かけも日本のナンテンと全く同じで光沢のあるダークグリーンの葉が情緒ある樹形を作り、かわいいホワイトの花を咲かせ初冬にはキラキラと光沢のあるレッドの実をつける、玄関脇に2本こんもりと植わっている。
  • 176. 南蛮ウルシ日本の「南蛮ウルシ調査グループ」がポルトガルに来られた、芸大漆芸科の三田村助教授(当時)、芸大漆芸科の井波講師(当時)、パリの美術学校で漆芸を教えているオルガさん(フランス女性)の3人でポルトガルでの2週間の滞在中私がお付き合いする事になった。リスボンに着かれた三田村助教授から「大先輩、よろしくお願い致します」と言われた時はびっくりしてなんとなくうれしい様な恥ずかしい様な気分だった、調査の主目的は「日本で生まれた南蛮ウルシがヨーロッパ(特に南蛮と呼ばれるポルトガルとスペイン)でどの様に工夫され、アレンジされ、日本とは異なる感覚で発展してきたか?」を調査/研究 する事。南蛮ウルシで名のある美術館は日本から事前に連絡が取れているので一般には公開されない国宝級の南蛮ウルシ工芸品が手にとって見ることが出来る恩恵付だ。縄文時代にすでにあったという古い歴史を持つウルシは日本の伝統工芸の代表的な1つとして挙げられる、ブラックのウルシ面にゴールドがキラキラ輝く「蒔絵」は広く世界に知られる。南蛮漆器は桃山時代に「蒔絵」と「螺鈿」を合わせて南蛮人を始めとするヨーロッパ人向けに日本で生まれた新しいウルシ工芸品で主にポルトガルを通してヨーロッパに持ち出された。
  • 177. マジカルミステリツアービートルズ、中でもジョンレノンの大ファンだった私は大学に入り東京に出てまず最初にしたことは髪を伸ばしマッシュルームカットにしてこよなくビートルズに近ずくことだった。そういうわけでポルトガルに移り住んで間もなくビートルズが有名になる前に出演していたライブパフォーマンスパブ「ザ・カーバンクラブ」とビートルズミュージアムを訪れる目的でイギリスのリバプールに出かけた。リバプールの町ではビートルズ主演のTV映画「マジカルミステリツアー」に登場するサイケドリックカラーに塗られたマジカルミステリーツアーバスに何度か出会った、楽しくなって思わずマジカルミステリーツアーのミュージックを口ずさむ、この上なく幸せな時間だ。「ザ・カーバンクラブ」は思っていたよりずっと小さく、ライブステージもこんな狭いステージで「イエーイイエーイイエーイ」と声を張り上げていたのだと思うと不思議な気分になる、メニューにあるドリンクの名前がすべてビートルズミュージックの題名なので「デイトリッパー」とか「ロックンロールミュージック」とか言ってオーダーする、ビートルズファンにはパブそのものがビートルズなのだ。
  • 178. モイーニョス(風車)リスボンでは少し郊外や海辺の小高い丘に出ると今はほとんど使われていないモイーニョス(風車のことで正式にはモイーニョ・デ・ベント)が見られる、モイーニョスの小屋は一般的にホワイトとブルー2色に塗られている。私の家は高台にあるのでベランダから近くの丘に5つの風車が並んでいるのが見える。ポルトガルは北から南まで西側を大西洋に面しているので大西洋から吹き上げる西風を利用して石臼で小麦、トウモロコシ・・・等を粉引きにする風車を古くから多く活用してきた。三角形状の4枚の帆は普段は巻き取ってあり、粉引きをする時だけ帆を広げる、広げる帆の面積は風の強さを見て巻き取り調節をする、帆を張って回っているのを見ていると風車ではなく馬鹿でかい「おもちゃのカザグルマ」という感じ、なんとなくホッとしてのんびりした気分にさせられる。
  • 179. ブガッティ 35Bリスボンから北へ約300kmほどのところの山頂のカラムーロという町に珍しいミュージアムがある。1953年に始まったアートコレクションは絵画(ピカソ、ダリ、シャガール、レジェー・・・)、彫刻、装飾品、陶磁器、テキスタイル、カーペット・・・などと幅広く、日本から持ち帰った安土・桃山時代の南蛮漆器、南蛮屏風(ちょんまげ姿に十字架をかけている、屏風はこちらでビヨンブと呼ぶ日来語)なども展示して、日本とポルトガルのお付き合の古さを偲ばせる。その後オートモビルのコレクションも加わり、フォードTモデル、イスパノソウザを始めとする多くの貴重なクラシックカーが所狭しと並ぶ。このミュージアムでの私の一番のお気に入りは1924年にドイツのアルザス地方で生まれたジャーマン市販 グランプリカーのブガッティ タイプ35、1931年に205km/h以上の世界最速を記録したソリッドブルーのブガッティ 35Bは小柄でカチッと決まってカッコいい! しかしこのクルマでヘルメットもかぶらず200km/h以上への挑戦は命がけだったろう、ドイツ生まれのブガッティは第1次世界大戦後にフランス車になった。カラムーロミュージアムはミニチュアカー/オモチャのコレクションの豊富な事でも知られる。
  • 180. 医者いらず(アロエ)アロエ(キダチアロエ)で思い出すのは子供の頃歯が痛くなるとおばあちゃんが庭のアロエの葉を取ってきて、切り開いてゼリー状のある内側をほっぺたに当ててくれた。ポルトガルでは日本の様に「医者いらず」的な使用はされないが鑑賞植物として広く親しまれている。多年草で、常緑で手入れが要らず(水をやる必要が無い)毎年冬になるとオレンジレッドのユニークな美しい花を咲かせるので公園や歩道、ロータリーのモニュメント・・・等公共施設に多く利用されている。ニョキニョキと1メートル近くにも伸びた花茎に紡鐘状の花が下から徐々に咲いていくので咲き始めてから咲き終るまで(下から徐々にしぼれていく)2ヶ月ちかくも楽しむ事が出来る。近所の家の道路わきに群れて大きくなりすぎたアロエが切り落されて捨ててあった、大喜びで拾ってきた3株は我家のベランダで元気に育っている。
  • 181. ボケ(木瓜)の花リスボンから北に300kmほど離れているヨメさんのふるさとポーボア・ダ・セルバンテス村に所有する土地に高さ2メートル以上もある立派な2株のボケ(木瓜)の木が植えてあった。落葉樹なので冬は枝だけになってしまう、枝だけの姿はアベラン(へーゼルナッツ)に似ているので花が咲くまではアベランと勘違いしていた。春先に枝という枝がコーラルレッドの花がびっしりと咲き乱れる、満開期にやや遅れて光沢のあるグリーンの葉が出始める、花だけの鮮やか過ぎるボケよりも花と一緒に葉を付けてレッドとグリーンの見せる補色の対比 に力強いボケの美しさを感じる。冬の枝だけの時期に木わけ(大きな株の周りに芽を出した40センチくらいの小さな木を根ごと掘り取る)をしてリスボンに持ち帰りベランダに鉢植えにしてある、盆栽はあまり好きになれないので勝手に育ってもらっている、これでメジロかホオジロでも飛んできたら日本にいるみたいだ。
  • 182. ロンドンバス/ ロンドンタクシーヨーロッパに住んでいるので時折仕事でロンドンに出かける。ヒースロー空港に着いた時はブラックのロンドンタクシーで市内のホテルまで行くのが通例みたいになっている。ロンドンタクシー独特のずんぐりむっくりのイギリスらしいたたずまいとあの広い後席でふんぞりかえり思い切り足が伸ばせるスペースがなんともいえないし手荷物を持ち込めるメリットもある。いくつかのモデルが存在するがやはり1958年に登場(1997年に40年ぶりのモデルチェンジを受け「TXⅠ」となってしまった)した「FX4」がロンドンの風景にぴったりだ!レッドのダブルデッカーバスもロンドンタクシーと並びイギリス情緒たっぷりでやっぱり好きな乗り物だ、ホテルから空港に帰る時には時々このバスでのんびりと行く、2階の最前列がお目当てシート、予想以上に左右前後に大きく揺れ、時折並木の小枝にガサッとかシュルシュルとかぶち当たるのがダブルデッカーバス2階最前席のスリリングなところ?最近リアエンジンのモダンでニュールックスのバスが増えてきているがフロントエンジンの「鼻付き」クラシックバスの方がロンドンの情緒にしっくり来る。
  • 183. エスパーダ・ プレト(黒太刀魚)キラキラとシルバーに輝く白太刀魚は日本でもポピュラーな魚だがポルトガルにはブラックの黒太刀魚がいる、ペイシェ・エスパーダ・プレト(ペイシェは魚、エスパーダは太刀、プレトは黒の意味)と呼ばれマデイラ島の特産物の一つとなっている。スーパーマーケットに行けばいつでも手に入るおいしい魚なので白太刀魚と同様にバター焼き、塩焼き、コロッケ、フライ・・・等いろんな調理法で食卓に並ぶごく一般的な魚、こちらの人は黒太刀魚の方が特有な美味がするというのだが私にはあまり差がわからない。500メートルもの深海に住むので白太刀魚より目が大分大きいのが特徴、マデイラ島特有の黒太刀漁船で漁をする、マデイラ島のレストランではもちろんお勧めディッシュナンバーワンのメニュー。
  • 184. アベイロのゴンドラリスボンから北へ250kmのところに在るアベイロ市は総合大学とゴンドラの町として知られる。リスボン大学のデザインエンジニア科で2年程デザインアドバイザーとしてお手伝いをしたことがある、その関係で他の大学のデザイン及びエンジニア科の何人かの教授とのつながりが出来た、アベイロ大学の卒業制作展に審査員として呼ばれたのもそのつながりからだった。アベイロは「ポルトガルのベニス」と呼ばれベニス同様ゴンドラで有名な港町、モリセイロと呼ばれるアベイロのゴンドラはもともと大西洋につながる湖のモリ―ソという名の海藻(農業用肥料として使われる)を運ぶための船だったが、今では観光客相手のビジネスボートでアベイロのアイキャッチャーとなっている。カラフルで工芸品ともいえるエレガントなフォルムで観光客を満載してゆっくりと川を行き来する。
  • 185. スズキ セルボリスボンのショッピングセンターの駐車場にセルボが停まっていたのを見て思わずフロンテクーペを思い出してしまった。2シーターのフロントクーペが発売された当時(1971年)私はホンダN360Tに乗っていてリアエンジン/リアドライブ、水冷2サイクル3気筒3連キャブレター付エンジンでブオーッという2サイクル特有のエンジン音と青白いスモークを巻き上げてすっ飛んでいくフロンテクーペが一番気になっていた、フロンテクーペは36馬力のN360Tより1馬力多い37馬力なのだ、「俺のN3に勝るなんて許せねー」って感じだ。日本では軽自動車の新規格により360ccから550ccに変更になるのを機に2シーターのフロンテクーペは4シーターのセルボ2ドアクーペとして1977年に生まれ変わった。ショッピングセンターで見かけたセルボはヨーロッパ輸出モデル(SC100型)で970ccの直4,47馬力エンジンを積み輸出仕様のいかついバンパーを付けていた。やっぱりN3をビビらせたフロントクーペが断然良い。
  • 186. ナザレのサルディーニャ(いわし)ナザレは海辺にいつもカラフルでかわいい伝統的な小型木造漁船が並べてある昔からの漁師町、新鮮な海産物をおいしく食べさせる町として知られる。炭火で塩焼をしてくれるいわし(サルディーニャ)を食べたくなると自宅から約100km程クルマを飛ばしてわざわざ出かけるのがナザレ、新鮮で風味たっぷり(9月の油ののったのが特においしい)のいわしにありつける。私はかなり大きないわしでも頭も骨もすっかり食べてしまい、お皿には何ものこらないのでレストランのおじさんがびっくりする(よほど空腹な日本人だと思われているのかもしれない)。友人達とワイワイとバーベキューをやった時、ある友人がナイフとフォークを使わない立ち食い用の「いわしサンド」の作り方を教えてくれた、こんがり焼けたいわしを頭だけ外に出してパンに挟み頭を掴んでググッと骨を引き抜く、これで「いわしサンド」の出来上がり、オリーブ油をたっぷりたらしてパクつく・・・ものすごくおいしい。
  • 187. トヨタ RAV41993年の東京モーターショーでセミプロダクションのプロトタイプがお目見えしたが私が最初に見たのは翌94年のパリオートショーに展示されたブルー&グレーの2トーンカラーのラブ4だった、「このクルマはヨーロッパでイケる!」と直感した。フルタイム4WDではあるがオフロードよりむしろオンロード走行を重視したニューコンセプトで乗用車ベースのモノコックボディーを持つ都会的なコンパクトSUV。それまでのSUVはランドローバーに代表されるオフロード重視のカントリージェントルマン向け4x4ビークルのイメージ(お金持ちの田舎のおじさんがネクタイをして乗る)が強く、一般市民が気軽に受け入れる軽快さと魅力に乏しかった。ラブ4はヨーロッパのSUV市場に「都会的オフローダー」、「ヤングマンズ4x4」、「オフローダーニュージープ」として新しい風を吹き込みまたたく間に大ヒット、その後長年にわたりSUVセグメントのベストセラーを続けた。
  • 188. エリセイラのタコ捕りタコはこちらでポーボと呼ばれる、自宅から西へ25km程のエリセイラいう町はタコ漁で知られる。プロの漁師は蛸壺で漁をするが一般の人達は引き潮時に浅瀬となった岩場のタコのいそうな穴に2メートル半ぐらいの竹ざおの先に上向きの4~6本モリと餌(イカ、鶏肉、魚・・・)をくくりつけて突っ込むとタコが餌を抱え込む、その瞬間にすばやく引き上げてタコをモリにかけるというえらく原始的な捕らえ方。タコはかなり知能の発達している動物と聞くがこの様子を見ているとあまり利巧とは思えない。代表的なタコ料理は「ポーボ・バタータ・ア・ムーロ(バタータ・ア・ムーロはパンチを食らったジャガイモという意味)」、小ダコを丸ごと軽く茹でてから炭火で焼いてオリーブ油がたっぷり注がれたお皿に盛り、コマ切りにした生ニンニクをたっぷり振り掛ける、同じお皿に小さな新ジャガイモを丸ごと茹でてから皮をこんがり焦がし左掌にのせて右鉄槌を一発食らわして軽くつぶれたのが4~5個付いてくる。単純な料理なのでタコの味を満喫させてくれる。
  • 189. タイーギャ(ボラ)タイ-ギャと呼ばれるボラは水面近くを泳ぐので「ウキ下3寸」という釣り方になる、体の大きさに比較して口が小さいので頑丈で小さめな針に小さめな餌(チーズやハムでも釣れるから面白い)がボラ釣りのポイント!今はリタイアして自宅で野菜作りなどしている近所のおじさんがリタイアするまでずっとレストランをやっていてボラはいつもメニューにあったという。私が「臭いがするのであまり好きではない」と言うと「それは調理の仕方を知らないからだ」と言う。ボラの腹を割き、はらわたを抜き取って四つ切りにしたレモンを腹に詰め、アルミホイルで包んで一晩冷蔵庫に入れておくとすっかり臭みが取れるそうだ。試しにその後釣ってきたボラをおじさんに調理してもらって塩焼きで食べてみた・・・アレッ本当においしい!、ぜんぜん臭くない! これならもっと真剣に釣らなくっちゃー。
  • 190. グローバルカラーショー90年代初頭オートモーティブ界に於けるカラーの重要性が世界的にクローズアップされグローバルベースでのカラー開発の必要性が生まれてきた。私がコンサルタントとしてアドバンスカラー開発に参加している日本ペイント社では日本、USA,ヨーロッパを視野に入れたカラー開発が行われ、毎年3拠点でグローバルカラーショーとして全世界のオートメーカーにプレゼンテーションを行なってきた。ショーではカラーパネル、イメージコラージュ及びファブリック&レザー・・・等で将来(3~4年先)のカラーイメージを提案する。ペイントメーカーの提案する「キーカラー」は「イメージカラー」としてオートメーカーのカラーデザイナーに伝わり、そこからそれぞれのメーカー、それぞれのモデル(車種)にマッチする生産カラーに向けて開発が続けられる。時代の趨勢で現在は華やかな「カラーショー」ではなく、より合理的で実務的な「カラープレゼンテーション」と名を変えている。
  • 191. VW ニュービートル1994年のデトロイトオートショーで話題を独り占めにしてしまったのはVWのコンセプトカー「The Concept One(コンセプト1)」だった。歴史的大ヒット作初代のオリジナルビートル(カブト虫)をテーマ/モチーフとするレトロモダーンデザインはジャーマンバウハウスを起想させるサイドビューがエッグシェープ(円弧)のシンメトリーデザインで J.Maysが率いるVW カルフォルニアデザインスタジオで開発された。明るいソリッドイエローに塗られた「コンセプト1」はインスツルメント(ステアリングホイール脇)に小さな花瓶が備わりホワイトのかわいい「一輪挿し」の花がおしゃれで微笑ましいインテリアを演出する。「コンセプト1」は大盛況を呼び3年後の1997年生産車として市場に現れた。「モダーンデー ビートル」のニュービートルは4代目ゴルフのプラットフォームをベースとするのでFF方式(4気筒2リッターガソリンもしくは1.9リッターターボディーゼルエンジンをフロントに積みフロントを駆動する)となり、オリジナルビートルのRR方式から完全な宗旨換えとなった。
  • 192. ラベンダー/ヨークシャープディングイギリスのノッティンガムにあるオートフィル社でオートモーティブヤーン(オートモーティブファブリック用の糸)の開発のコンサルタントをしていた頃(1995年)の思い出だ。レンタカーでヨークシャー郊外にあるいくつかのファブリック会社を訪れる途中、放牧場のある山道の両側に淡いブルーパープルの花を咲かせたラベンダー畑が広がっていた、ブルーパープルのじゅうたんを敷き詰めたような風景は何か幻想的でボーッとあっけにとられてしまった、我が家のタンスには芳香と防虫を兼ねて乾燥させたラベンダーが束ねてつるしてある。せっかくヨークシャーに来たのだから本場のヨークシャープディングを食べてみようとパブに入る、まずビール、ブリティッシュパブ独特の雰囲気のカウンターで飲むビールは何ともいえない、オーダーしたヨークシャープディングが肉料理と同じ皿にのせられてきた、思ったより大きくこんがりと焼けて見るからにおいしそうだ。日本のプリプリしたプリンとは異なりフワフワで柔らかく甘味が無いので結構肉料理に合う。
  • 193. レンジローバーヨークシャーの山合いの小さな村のパブで時間を過ごしている時にハンティング帽をかぶった田舎のおとっつあんという感じのドライバーがブリティシュグリーンのレンジローバーでパブのパーキングに乗り付けた。カントリージェントルマン丸出しでギネスビールを片手にタバコをふかしながら1人でダーツゲームを楽しんでいる,ダーツは「パブゲーム」とも呼ばれるようにブリティシュパブには欠くことの出来ない遊びゲーム。おじさんはダーツを放つ毎に何やら楽しそうに独り言を言いながらギネスビールを口に運んでいる。ローバー社は従来のオフロード専用のランドローバーからオフロードのみならずオンロードでも高級サルーンとして使える快適な5人乗り高性能4WD乗用車を目指すニューコンセプトの革新的なラグジャリーSUVとして1970年にレンジローバーを登場させた。「高級SUVの元祖」、「四輪駆動のロールスロイス」・・・とキングオブSUVの名をほしいままにしているローバー社のフラッグシップ。
  • 194. フィアット バルケッタ1989年に登場したマツダ MX-5ロードスターは世界中のライトウエイトスポーツカーファンを狂喜させ、ロードスターの世界的ブームを巻き起こした。ロータス エリーゼ、ローバー MGF(横置きミッドシップエンジン)・・・等イギリスのライトウエイトスポーツカー老舗を目覚めさせたのを始め、世界中のオートメーカーからMX-5をダイレクトターゲットとするライトウエイトスポーツカーが続々と市場に現れた。イタリアからはフィアット バルケッタ(イタリア語で「小船」)もその1台で、1995年打倒MX-5を目指して華やかにデビューした。プントのプラットフォームをベースとしたFFレイアウト(前輪駆動)の粋で情熱的なイタリアン ライトウエイト ロードスター、1.8リッター4気筒、131馬力エンジンはキャンバスルーフの軽いボディー(1060kg)を機敏に軽快に走らせる。ラテン的でスポーティーなボディーは定番のソリッドブラックに加え、明るいソリッドオレンジやイエローがとても良く似合う。
  • 195. オリーブ前2軸トラックホンダCB750FOUR(1969年)(1969年)オリベイラ(オリーブの木)に成るオリーブの実はアゼイトーナと呼ばれオリーブグリーいすゞにはトラックがメシより好きで入社し近じか結婚するという同期入社の友人が「結ンとブラックの2種がある。ヨメさんのふるてくるおかしな仲間がいた、週末は国道一号婚したらもう買う機会も無いだろうからチョさとでは12月はオリーブの実の取り入れ時線の歩道橋の上で一日中トラックやバスのデンガー(独身)のうちに買うんだ」とか言っで親戚の人達(よくわからないのだけれどほィーゼル排気音を聞きながら胸いっぱい排気て発売されたばかりのCB750FOURをとんどが私のいとこ??だそうだ)が集まりガスを吸い込むのが好き?というおかしなや購入した。「ナナハン」の愛称で呼ばれるC男性が長い竹ざおで実を叩き落し女性が落ちつだ。彼は「トラックはデカイほどカッコいB750は空冷並列4気筒ビッグエンジンとた実を拾い集めるという原始的な収穫をワイい、特に前2軸はトラックの醍醐味だ、ちょ量産バイク初のフロントディスクブレーキ、ワイガヤガヤとワインを飲みながら行なう。っとうるさいけどいすゞV10ディーゼルエ4本スポーツエキゾーストマフラー・・・等収穫した実の何割かは塩付けにしてアゼイトンジンは世界一だ」と言う。トラックの車軸で大迫力!まさにバイクの王様にふさわしいーナ(日本の漬物みたいなもの)にし、あとの構造は全輪数x駆動輪数で表示されるので貫禄だ、彼はグリーンタンクのやつを選んはコ―ペラティバと呼ばれる生協(農協)でいすゞ前2軸トラックの正式表示は「6x2だ、翌年めでたく結婚したがナナハンは手放アゼィティ(オリーブ油)にしてもらう。面前2軸」となる。前2軸は回転半径が大きくさない「しっかり者」だった。アメリカでも白がって一日手伝ったのは良いのだが一日中なる短所はあるものの直進安定性と乗り心地大ヒットとなり「King of The Ro上を向いて竹ざおを振り回したので翌日は肩が良いのでカーゴ車、タンクローリー車などad」のハーレーダビットソンを真っ青にさが張り首が回らなくなってしまう大変な目にの重量級大型トラックの長距離、高速輸送にせたという話が残る。私はCBシリーズの中あった。我が家は毎年いとこ達から送られて本領を発揮する。ライバルの日野、三菱ふそでは「4into1」の集合マフラーとレーくるホームメードのアゼィティとアゼイトーうの大型トラックにも見られたがいすゞの前サー風の長めのタンクで1974年に登場しナをおいしくいただいている。2軸が彼の言うとおり一番迫力があった。彼たCB400Fがたまらなく好きだ、とくにの影響か?私もその頃からトラックやバスにレッドタンクのやつが良い。興味を持ち始めた。
  • 196. ボルボ 8501994年から4年間ほどオートモーティブファブリック開発のプロジェクトでポルトガル中北部のネラ市に住んでいた時の思い出だ。ネラ市に隣接するモンガルデ市に日本のある林業会社と合弁でMDF(ミディアムデンシティファイバーボードの略で木材を原料にし合成樹脂接着剤を加え成型熱圧した建築用材板)を生産するSIAFという会社がある。そこの秘書から「先週、日本からディレクターが来られたのだがポルトガルが話せないで寂しそうなのでお話し相手になっていただけないか?」と電話がかかってきた。そんな行きがかりで友達になったディレクターの車が1993年式ボルボ850エステート(ステーションワゴン)、彼はかなりのスピードで飛ばしていたのだろう、市道のゆるいカーブを曲がりきれず助手席側を並木の大木にぶち当て、弾みで2メートル程舞い上がり半回転してルーフで滑走して停まった。幸い無傷でガラスが吹き飛んだフロントウインドーから這い出すことが出来た。あれほどのクラッシュなのにフロントエアバックもサイドエアバッグも開かなかったと憤慨していたものの、翌週にはまた別の新しい850エステートに乗っていた。エアバッグは開かなくてもボルボは安全な車だと信じているのだろう。
  • 197. 光るウキ/カラパウ(アジ)/カバーラ(サバ)夏になるとカラパウ(アジ)とカバーラ(サバ)が防波堤に近ずいてくる、満月の真夜中の満潮時前後の4時間が狙いどき、夜釣りなので「ムーンライト」とか「スターライト」とか呼ばれる発光性のプラスチック(密封されている袋から取り出し軽くポキットと折り曲げるとイエロー/オレンジ/グリーンに発光し始め12時間ほど持続する)をウキの先端に取り付ける、餌は新鮮ないわしを2cmほどに切って釣り針に「チョン付け」にする、暗闇に波に揺られてユラユラ浮かぶ「光るウキ」を見ているだけでもうっとりするほど美しい、突然アジやサバに引き込まれて暗い海の中をグイグイ走り回る水中の「光る浮き」はなんとも幻想的で不思議な光景を見せてくれる。このダイナミックな美しさに魅せられて夜が明けるまで寒さ(防波堤は明け方になると夏でも結構寒い)も忘れて光るウキとにらめっこする。
  • 198. フォード KA1996年に発売された3ドア ハッチバックスタイルのミニカー(セグメントA )、オリジナルでフレッシュな「ニュー・エッジ・デザイン」を掲げて大きな話題をまいた。「ニュー・エッジ・デザイン」とは丸みを帯びたソフトなオーバルのダイナミック・エアロシェープに、ハードでキラリと光るシャープなラインがインターセクトするデザイン、KAではエキステリアに留まらずインテリアにまで及んでいた。環境保護、少燃費・・・などが大きな社会問題となり経済的で魅力的なシティーカーが望まれつつある絶好期に市場に現れた。発売当初(3年間)はすべてのモデルがホイールアーチと一体となるブラックのプラスチックバンパー(前後共)がユニークでキュートなデザインアピールをしていた。KAはイギリスのミニカー市場でまたたく間にベストセラーカーとなると共に、初めて運転免許を取得した女性の選ぶナンバー1カーに挙げられている。「ニュー・エッジ・デザイン」はその後のフォードデザインテーマとして大切な役割を果たす事になる。
  • 199. ルノー セニックヨーロッパではMPV/ミニバンをモノスペース(モノスペースビークル)と呼ぶ。ルノー エスパスに代表される7人乗りのフルサイズミニバンがモノスペースの定義とされていた当時、コンパクトカーメガーヌのバリエーションの一つとして登場した5人乗りのモノスペースビークルはメガーヌ セニックと呼ばれた。1996年に初めて見た時「なんだ 三菱シャリオと同じコンセプトじゃないか!」というのが私の第一印象、ところがルノーはメガーヌ セニックはニューコンセプトの5人乗りコンパクトモノスペースで、ニュージャンル(ニッチマーケット)を切り開く世界で初めてのクルマというキャッチフレーズの大々的なキャンペーンをうち、市場を洗脳して大成功に結びつけた(ルノーマーケティングストラテジーの大勝利)、たちまち大ヒットしモノスペースビークルセグメントのベストセラーとなり1997年には「ヨーロピアン カー オブ ザ イヤー賞」に輝いた。後にボディーを延長して7人乗りグランセニックが追加された。
  • 200. 三菱 シャリオヨーロッパではコンパクトモノスペースビークルの先駆車はルノー セニックというのが一般的だが。私は「モノスペースコンセプト」はフィアットの初代ムルティプラがオリジナルだと思っている。「モノスペースの元祖」と呼ばれるルノー エスパソがヨーロッパで発売される1984年以前、日本では「背の高い3列シートのファミリー乗用車」コンセプトの日産プレーリー(初代1982年)、三菱シャリオ(初代1983年)が登場している、セニックよりもなんと13~14年も前の出来事ではないか!しかし歴史を見るとこの2台の日本車より25年も昔の1956年に3列シート6人乗で600ccの小さなエンジンを積む初代ムルティプラが誕生している「モノスペースの元祖」はムルティプラということになる。現市場にはセニックをはじめ、シトロエン ピカソ、オペル ザフィーラ、フォード エスマックス、VW トーラン、フィアット ムルティプラ・・・など数多くの新しいヨーロピアンモノスペースに混じり日本の古いモノスペースも見かける、イラストは先日見かけた2代目のシャリオ、こちらではスペースワゴンと呼ばれ初代より一回りサイズアップして1992年に登場したモデル。
  • 201. ルノー エスパスエスパスは1996年に登場しコンパクトサイズのモノスペースビークルとしてヨーロッパ市場で大センセーションを巻き起こしたセニックより12年も前の1984年に登場している。エスパスの誕生するいきさつが面白い、当時プジョーの傘下にあったマトラは「7人乗り未来車コンセプト」をプジョーに提案したが拒否されてしまった。仕方なしにこの「コンセプト」をルノーに持ちかけたところ、ルノーはこの「コンセプト」を受け入れマトラに開発及び生産をも依頼するという意外な経過を経て誕生することになった。そう・・・仕方なしに生まれた車なのだ。マトラの発想で生まれたエスパスはその名のとうりスペースと居住性を最重視した「3列シートの7人乗り乗用車」で従来のビジネスライクでそっけないミニバンのイメージを大きく変えた本格的な7人乗りモノスペースビークルの元祖といえる。スペースフレームにFRP樹脂のボディー(外板)を与えられたエスパスは瞬く間に大ヒットとなりその後他のオートメーカーからも続々と登場するモノスペースの先便的な存在となった。
  • 202. ラリーポルトガルオフロードラリーはそれまでパジェロで戦っていた三菱ポルトガルは1996年に発売されたライトピックアップニューL200ストラカーのプロモーションも兼ねて1997年以降はL200ストラカーが主体となった。私はL200ストラカーのアフターマーケットパーツ(FRP製ロールバーやトノーカバー、フルボックス・・・等など)の開発及び生産に携わっていたのでストラカーラリーカーのグラフィックデザインなどもお手伝いした。L200はもとはストラーダという名だったがフィアットが登録済の名なのでヨーロッパ市場では使えない、そこで三菱ポルトガルのマーケティングの人と私とでストラーダとダカールをドッキングさせてでっち上げた名が「ストラカー」だ。当時三菱ポルトガルのエースドライバー カルロス・ソウザはカーゴボックスの後端を30センチ切り詰めたストラカーラリーカーで数回のナショナルチャンピオンに輝きパリダカールレースにも何度か出場(5位入賞)した。ショートボックスのラリーカーコンセプトは市販車にも反映して「ダカール」、「バージャ」・・・などのリミテッドバージョンが生まれた。
  • 203. 派生モノスペースビークル/MPV1996年に発売されたプジョー パートナー/シトロエン ベルリンゴ(この2台は姉妹車)と1997年に発売されたルノー カングーに代表されるスモール モノスペース(マルチスペース) ビークル。ヨーロッパはアメリカ/日本市場とは異なりSUV/4X4ビークルよりも先にモノスペースビークルの市場ニーズが高まり、急激に市民権を得つつあった。ルノー セニック、オペル ザフィーラ、シトロエン ピカソ・・・等のコンパクトモノスペースビークルが大成功を収めつつある市場に、ひとまわり小さなモノスペースビークルの登場が待たれた。派生スモールモノスペースビークルは2シーターの背の高いコマーシャル ユーティリティー パネルバンに後席を設け5シーターとし、メクラパネルをガラスに入れ替える・・・等して少ない投資で市場ニーズにマッチした魅力的なビークルをリーズナブルな価格で提供した良い例といえよう。
  • 204. トヨタ プリウスプリウスが世界初の量産ハイブリッド専用車として1997年に日本で発売された時私はすでにポルトガルに住んでいた、ちょうどその年ビジネスで日本を訪れた折、東京でデザインオフィスを開いている友人が発売直後のプリウスを購入していたので早速同乗させてもらった。内外装の未来的なデザインとクリーンエネルギーを提唱する「テーマカラー」のさわやかで新鮮なライトブルーエキステリアもさることながら、音を立てずに走り出す不可思議な雰囲気に次元の異なるビークルという印象を受けた。発売当初は価格が高い事と新しすぎるものへの警戒心もあって市場の支持を得るのがなかなか容易ではなかったがトヨタが将来に賭ける熱意/心意気、プリウスの弛みない奮戦により少しずつ頭角を現してきた、プリウスは今では全世界で環境に優しいクルマ、低燃費で経済的なクルマの代名詞として将来への期待はますます大きくなっている。
  • 205. スマートオリジンは 1994年にお目見えしたダイムラーベンツと時計メーカー スウオッチ共同開発のコンセプトカー「スウオッチカー」、2シーターに割り切ったコンセプトで2.5メートルという短い全長の見馴れないプロポーションで登場した。「トリディオンセフティーセル」と呼ばれるストラクチャーとプラスチックボディーが造り出す2トーンカラーのグラフィックビューティーは「スウオッチカー」の強力なビジュアルアイデンティティーとなる、スウオッチ時計のカジュアル&ファッショナブルでカラフルなキャラクターが生かされたコンセプトカーだった。市販車は「スマート シティー クーペ」として1997年に発売された、それまで存在していたマイクロシティーカーとは全く異なる別次元のマイクロシティーカー(後にスマートフォーツーと改名)として注目を浴びた。コンセプトカーがお目見えして15年経った現在、原油価格の高騰、環境保護、排気ガス規制・・・等の問題が問われるエコ時代、「小さな巨人」は15年目にしてようやく真価を発揮しつつある。
  • 206. アルファロメオ 1561997年、フィアットグループにおいてスポーツブランドを受け持つアルファロメオに久々にアルファらしいスポーティー4ドアセダンが登場した、角ばった直線的なスタイルで魅力に欠けた155の後継車156は優美な曲線とふくよかで張りのある曲面がスポーティーな力強さとアルファらしさを感じさせる。156はミドルカーセグメントでBMW3シリーズ、アウディー A4、メルセデスクラスC・・・等がダイレクトコンペティターとなる。イタリアンビューティーを感じさせる156は1998年「ヨーロピアン カーオブ ザ イヤー賞」に輝きアルファロメオ久々の大ヒット作となった。2000年には「世界で一番美しいワゴン」と言われたスポーツワゴンが加わった。セダンはアルファレッドが一番お似合いだがどういうわけかスポーツワゴンにはソリッドブラックが良く似合う。
  • 207. 色彩心理学武蔵野美術大学の千々岩教授(心理学)と森江教授(工業デザイン)が「ヨーロッパに於ける地域色(郷土色)視察/調査」でいくつかの国を回られポルトガルにも5日間ほど滞在された(もちろん我が家に泊まっていただいた)。「世界的規模での色彩情報の調査/収集」の一環で、それぞれの国の色彩の実態/あり方/使われ方・・・などを自分の目で確認したいのでポルトガルの自然界の色、家屋/建築物の色、教会の色、調度品の色、公共施設の色、食べ物の色・・・等いろいろ見て回った。夜は毎晩ヨメさんをまじえて(女性の意見も知りたいという両教授の要望により)4人でワインを飲みながらの「色談義」、私が「色彩心理学とはそもそも何なのですか?」などと質問したので、千々岩教授が「それはですね・・・」で始まり色と心理に関する興味深く面白いお話をいろいろ聞かせて下さった。色の世界の奥の深さと人間の心理能力の偉大さと不思議さにいまさら驚かされた。
  • 208. フィアット ムルチプラ1996年のパリオートショーで明るいターコイスグリーンのエキステリアにダークグレーのインテリアがコンビネートするムルチプラのコンセプトカーがデビューした。奇天烈なデザインにまず驚かされた、異様というか個性的というか、とにかくクセとアクの強いデザイン、ライバルのモノスペースには見られない全幅の大きなプロポーションで2列の3座独立シート(3+3コンセプト)が備わる5ドアコンパクトモノスぺース、ショーカーなので誇張デフォルメ手法で来場客の目を引こうとしているのだろうと思った。ところがである!1998年に市販されたモデルを見てまたびっくり!まさかショーカーのままの「UFO」スタイルの不思議なデザインで発売されようとは!!スペース効率を最大限に考慮した機能性/合理性は抜群なのだが、そのたたずまいはパースも何もあったもんじゃない、後姿はまさに逆パースですョ!ひっくり返りそうで見ていられない。未だに好きになれずにいるクルマの一台だが個性の強さでは他車に負けない、それにしても「醜いアヒルの子」のニックネームはぴったりだ。
  • 209. メルセデスAクラスメルセデスが初めて手がけるコンパクトカーであると同時にメルセデス初のFF方式駆動の乗用車として1997年に発売され注目を浴びた。メルセデスのラインアップではミニカーのスマートとミドルカーのCクラスの間に位置付けられVW ゴルフ、オペル アストラ、フォード フォーカス、ルノー メガーヌ・・・などがひしめくヨーロッパ最大市場コンパクトカーセグメントに参入する大切なモデルである。フロアが「サンドイッチコンセプト」と呼ばれる二段構えの床構造となり、前面衝突時にエンジン/トランスミッションなどが斜め下に落ち込み高い安全性を確保するユニークな衝突エネルギー吸収システムを備える。Aクラスは発売直後の公開テスト(メディアが行ったエルクテスト)で横転する事故が発生「ずっこけメルセデス」の汚名を受けてしまった。メルセデスは緊急に販売した全車をリコールし安全を保障すべくサスペンションの改良などを早急にほどこし再販売にかこつけたというメルセデスらしくないハプニングを起こしたモデルでもある。
  • 210. アウディー TT1998年に発売されたアウディー初の本格的スポーツカー。クーペスタイル(翌99年に2シーターロードスターが加わる)のTTはがっしりしたマスとボリュームを感じさせる斬新で力強い丸みを帯びた「シンメトリック」造形で強力なインパクトを与えた。機能美を重視する「バウハウス」ジャーマンデザインの典型と言えよう。4気筒 1.8リッターターボエンジンを横置きに載んだFWD方式(後にクワトロと呼ばれる4WDが加わる)のTTは発売直後、高速走行(180km以上)でのダウンフォース不足によるオーバーステア事故が多発しアウディの面目を失いかけたが、サスペンションの改良、リアスポイラーの追加・・・等、迅速に対応して安全性を確保したため大ヒットにつながった。不思議なファッション性をかもし出すデザインはその後のアウディデザインの「アイコン」となったとも言う、このクルマには「ジャーマンシルバー」がイメージにぴったりだ。
  • 211. ランチア フルビア1998年、リスボンクラシックカーショーでオレンジレッドのランチア フルビア2ドアクーペに出会った。フルビアクーペは‘60年代後期にイタリアの「スタイルアウト誌」で見て以来忘れられずにいる官能的なスポーツカーだ。1963年に4ドアセダンのベルリーナが発売され、2年後に2ドアクーペが追加された。当時のエアロダイナミクススタディーを反映しておしりをスパッと切り落とした「コーダトロンカ」の造形はあまりにも大胆でハッとしてしまう。細いピラーのグリーンハウスは明るいラテン的な開放感に溢れている。このクーペをベースにWRC(世界ラリーチャンピオンシップ)参戦モデル「ラリー1300HF」が登場し、1972年ランチアは「1600HF」マシーンで待望のコンストラクターズタイトルを勝ち取った。バンパーを取り外した精悍なラリーマシーンはメチャクチャカッコ良いがバンパー付のおとなしいフルビアクーペもすこぶる魅力的だ。
  • 212. アルファロメオ ジュリア古いアルファに出会うたびに思い出すことがある。1969年いすゞ自動車でデザイナーとして働き始めた頃、トリノオートショーに視察調査に出かけた先輩が持ち帰ったお土産のアルファロメオのステッカーが抽選で私のものになった。タテ10センチヨコ18センチほどのグリーンの大蛇(大蛇はミラノのビスコンティ家の紋章)のステッカーを愛車ホンダN360のリアウインドーに貼り付けて走っていた。アルファに興味を持ったのはそんな単純な理由からだったのかも知れない・・・時が経つにつれてかなりの「アルファ党」になってしまったのだが・・・。クラシックカーショーで見かけたのは1965年に登場したアルファロメオGT1300ジュニア、精悍な2灯式ヘッドランプ(後期モデルは4灯式になった)と特徴的な「段付き」フロントノーズがスポーティーなカッコ良さを漂わせる。シンボル「四葉のクローバー」はアルファの生産第1号車の「24HP」以来伝統的に守られてきたものでレーシングカーには「勝利の守り神」として欠かせないものになっている。アルファの各モデルのトップスポーツモデルに与えられるグレード名で、ジュリアGTAモデルにも「クアドリフォリオベルデ(緑の四葉)」が誇らしげに付いている。
  • 213. CP2000列車ポルトガル国有鉄道(CP)主催の「サバーバンコミューター(郊外電車)国際コンペティション」はポルトガルの二大都市リスボンとポルトを中心にそれぞれ約60kmの郊外を最高時速140kmで結ぶ4両もしくは5両編成のコミューターのデザインがテーマであった。コンペティションは私が参加したチーム(ボンバルディエ、シーメンス、MMデザイン)が勝ち取り「CP2000プロジェクト」として開発及び製造を行うことになった。MMデザインはデザイン全般(エキステリア、インテリア、カラースキム・・・)担当でスケールモデルを経てフルサイズモックアップを制作し、ボンバルディエで製造に入った。第一号車は2002年の9月にポルト市を走る事になったのでポルトイメージのブルーパープルを基調としたカラースキムをプロポーサルしたのだが第一号コミューターを走らせる路線会社のマ-ケティングのおばさんの「ウチのコーポレートアイデンティティーカラーはイエローとボルドーです」のツルの一声でエキステリアはイエロー、インテリアはイエローとボルドーに決定してしまった。おばさんはこわい!
  • 214. カーティング(ゴーカート)私がカーティングを始めたのはコンピューターのトリコになり週末でもコンピューターとにらめっこで一日中部屋に閉じこもっている当時15歳だった息子ビクトーを外へ連れ出す手段としてだった。まず私がカーティングを始めそれからビクトーを誘い出したのが始まり、ところがビクトーは今度はカーティングのトリコになり、週末はカートドロモ(カーティング場)を走りまくるハメになってしまった。カートドロモでレンタルして走る4サイクルエンジンのカートでは物足りなくなり、もっと早く走るために私用と息子用2台のカートを購入(2台ともシャシーはスイスハットレス、エンジンはパリーラの2サイクル100cc)、三菱スポーツワゴンで引っ張る2階建てのトレーラーに2台載せて、面白そうな草レースを見つけてはチャレンジして楽しんでいた。しばらくすると長女理奈も興味を持ち「走りたい」と言う、私のカートを理奈に譲り私は2人のメカニックになってしまった。カートはレッドの丸チューブシャシーにブルー&ホワイトのプラスチックボディー、スパルコのブルーレーシングスーツ、ブラックヘルメットにはMMデザインレーシングチームのレターとパイロットネームが入る。「暴走親子」だとヨメさんに言われるが本当だから仕方が無い。
  • 215. ランドローバー ディフェンダー週末に各地のカーティング場を往復する車には親子3人と作業台(カートワゴン)、何組かのタイア、スペアパーツ、燃料タンクと燃料などを積めるスペースそれに2台のカートを載せたトレーラーを引っ張るパワーと走行安全性などを考慮して大きめな4輪駆動車を購入することにした。何台かのSUVを比較検討の末、三菱スポーツワゴン(日本名 三菱チャレンジャー)とランドローバー ディフェンダー127(4ドアでホイールベースが127インチ)とトヨタランドクルーザーが候補に挙がった。1983年に発表されたデェフェンダーはオフロードに重点を置く四輪駆動SUVでホイールベースが110インチあることからワンテンとも呼ばれた(後にロングホイールベースの127が加わる)。丸みを帯びた強いウエストラインがフロントからリアまでストレートに延びるいかにもオフローダーらしい力強いシンプルでスパルタンなデザイン、質実剛健を絵に描いたような車で私にとってこれぞランドローバーだ。本当はデェフェンダーが欲しかったのだがウチ(MMデザイン)でスポーツワゴン新発売プロモーションや三菱のディーラーディスプレーなどのお手伝いをしていた関係(義理?というより8パーセントのディスカウントが効いて)であっけなくスポーツワゴンに決まってしまった。
  • 216. オートモーティブ12色環長い間オートモーティブカラー開発に携わっていると一般的な12色環(レッド、オレンジ、イエローオレンジ、イエロー、イエローグリーン、グリーン、ブルーグリーン、グリーンブルー、ブルー、ブルーバイオレット、バイオレット、レッドバイオレッド)では現在のオートモーティブカラーを的確に分類しきれない不都合がある。そこでオートモーティブでは定番色のホワイト、シルバー、グレー、ブラック・・・等を組み入れてオートモーティブにふさわしい「宮川式オートモーティブ12色環」を考案した、12色はホワイト、シルバー、グレー、ブラック、ブルー、グリーン、イエロー、ゴールド(ベージュ)、オレンジ、レッド(ピンク)、パープル(バイオレット)、ブラウンからなる。この方式でここ何年かオートモーティブカラーの調査/分析を続けているが現存カラーもしくは将来への提案カラーがこの方式で簡単に分類出来るので本当に重宝している。
  • 217. リスボン大学リスボン大学人間工学科の教授から突然電話が入った、デザインマガジンに掲載された私のカラーに関する記事の中の「カラーは人間工学にも影響を及ぼす」のフレーズを見て共感を覚えたのだそうだ。数週間後にリスボン大学でヨーロッパ中の人間工学に係わる先生達50人程が集まる研究会があるのでその席で「カラーと人間工学」の題で一時間半程スピーチして欲しいと言う。そこでドイツやフランスからも来ている人間工学の先生達を前に「カラー(可視光線)がなぜ人体にエモーショナルな伝達をするのか?」、「視認安全性とカラー」、「視覚/味覚とカラー」・・・等いろいろレクチャーした。彼らが一番興味を示したのはレッドのいちご/りんごとブルーのいちご/りんごの写真を見せて「視覚とエモーション(カラーと味覚)」について説明した時で「なるほど人間工学とカラーは密接に結びついているんだな・・・」と言う声が聞こえた。
  • 218. スズキ ジムニー(3代目)私の好きなジムニーはボンネットの前面に5つの打ち抜き穴のある3代目のジムニー、ミニSUVと言うより粋でオシャレな「ミニシティージープ」のイメージだ。1970年に登場した初代ジムニーは当時の軽自動車規格の360ccエンジンを積みキャンバストップ(メタルトップは後に追加された)の「軽四輪駆動車」、「軽オフローダー」として軽自動車の新しいジャンルを開き大ヒットとなった。1981年に登場した2代目はオフロード重視の初代にオンロードでの快適性を加味し、ジープライクなスタイルから直線基調の親しみやすい乗用車スタイルに一新した。軽自動車規格改正に伴い1998年にエンジン排気量をアップし、スタイリングとイメージを一新したニュージムニー(3代目)が登場した。日本では軽自動車規格内の660ccエンジンが主流となるがヨーロッパではコンパクトSUVとしての性能確保のため1300ccガソリンエンジンと共にヨーロッパ市場では欠かせないディーゼルエンジン(1500ターボでスペインのサンタナ社で生産されている)が用意される。
  • 219. トヨタ ヤリスヨーロッパ市場においてはまるで存在感の無かったスターレットの後継車で日本名ヴィッツ。1997年のフランクフルトオートショーで「ファンプロジェクト」として「ファンタイム」、「ファンクーペ」、「ファンカーゴ」の3コンセプトモデルがお目見えした。そして「ファンタイム」は翌年1998年のパリオートショーでヤリスとして登場、4気筒1.0リットルガソリンエンジンの「リッターカー」として話題をまいた。ヨーロッパにおいて最も競争の激しいスモールカーセグメントにトヨタがVW ポロ、オペル コルサ、フォード フィエスタ、プジョー206、フィアット プント・・・などの強豪に真っ向から立ち向かう意欲的なモデル、1999年に発売が開始された。ヤリスのテーマカラーの1つのゴールド(イエローではなくインパクトの強いはっきりしたゴールド)がセールスキャンペーンに新鮮にアピールしていた、「2000年度ヨーロピアンカーオブザイヤー賞」に輝く。
  • 220. クライスラー PTクルーザー1999年に発売された4ドアハッチバックPTクルーザー(2ドアカブリオレは後に追加)はアメリカではスモールカーだが、どういうわけかヨーロッパではモノスペースビークル/ミニバンのセグメントに入る。1930年代の旧き良きクライスラー エアーフローを現代風に練り直し、ビッググリル、チョップトウインドー、レトロフェンダー・・・等でユニークなキャラクターとバランスを見せる「アメリカン レトロ モダン」デザイン! 日本人デザイナーには逆立ちしても出来ないデザインだろう。背の高いずんぐりとしたたたずまいはロンドンタクシーを髣髴させる。アメリカでは発売後数年間プレミアムが付き、6ヶ月以上もの納車待ちという大変な人気を呼んだ。ヨーロッパではあまり見かけないが(私の住むマルベイラ市には2台だけいる)たまに見掛けた時はそのユニークさとユーモアな存在感に思わずニヤッとしてしまう面白い車だ。デトロイトオートショーで初めて見たソフトゴールド(ベージュ)が私のPTクルーザーの思い出カラーだろうか。
  • 221. アウディー A21997年のフランクフルトオーショーで近将来の理想的コミューターとして紹介されたコンセプトカー「A12」は高度なテクノロジーとトールボーイのニュープロポーションを持つフレッシュなインパクトを与えるデザインでショー会場で大反響を呼び話題を独り占めにしてしまった。スティールボディーに比べ43%も軽量なASF(アウディー スペース フレーム)構造のアルミボディーと1.2リットル直噴ディーゼルエンジンで100kmを3リットルで走る「3リッターカー(エコカーのシンボル)」が話題の中心となった。Cd値0.28はスモールカー セグメントではベスト 1を誇る。生産型はA2として1999年のフランクフルトオートショーで発表された。高速道路を走るA2は全幅が狭く全高が高いためキャシャで何とも頼りの無い印象を受けてしまう。プレミアムスポーツカーを謳うアウディーのイメージからほど遠く、市場では予想外に販売が伸びず短命にして生産を中止してしまった。
  • 222. 月下美人草花では特にサボテンや多肉草が好きなのでいろいろな種類のものが日当たりの良いベランダに置いてある、月下美人もそのうちの一つで毎年15~20個(3鉢合わせて)の花を咲かせる、今夜咲きそうだという日は夕方にベランダからリビングルームへ持ち込んでテーブルの上に置きゆっくりと花の開くのを待つ。大型のつぼみが少しずつスローモンションで開いてゆく過程はとても神秘的で自然の不思議さを感じる、やがて全開し直径20センチもあるホワイトの大きな花を咲かせる、一夜しか咲かないはかない美しい花は薄命な月下美人の名にふさわしい。かなり強い甘い香りを放つ、開花時間が短いので強い香りで昆虫を早く引き寄せるのだと聞く。私が月下美人を好きなのは花の美しさもさることながらスクスクと伸びる常緑の多肉葉(茎の変形したものだそうだが)のフォルムが好きだからだ。
  • 223. トヨタ スポーツ8002006年のリスボンクラシックカーショーでイエローの「ヨタハチ」に出会った。AJA(Amigos dos Japoneses Antigos、日本語にすると日本の古い車たちの友達)のスタンドに懐かしい車たちが並んでいる、「ヨタハチ」、「エスハチ」、「初代セリカ」、「ダットサンブルーバード」・・・、あまりに懐かしいのでスタンドにいたAJAのメンバーとしばらく話し込んでしまった。AJAはポルト市に本部を置く古い日本車オーナーメンバークラブ、ポルトガル中のメンバー間の親交、情報交換、パーツの調達・・・などを目的とする日本車愛好会とのことだ。「ヨタハチ」はトヨタの大衆車パブリカをベースにして1965年にトヨタスポーツ800として登場した2シータースモールスポーツカー、レースサーキットではホンダS800を相手に激しいバトルを見せた。わずか790cc45馬力の非力な空冷2気筒エンジンで充分な動力性能を確保するため、エアロダイナミクスと軽量化を重視した丸みを帯びた滑らかなデザインでまとめられている。トヨタの800だから「ヨタハチ」なのだろうが2気筒エンジンはアイドリング時からアクセルをグッと踏み込むとブルブルと車体が揺れたので「ヨタハチ」と呼ばれるようになったのかも知れない。
  • 224. ホンダ S800クラシックカーショーのAJAスタンドには「エスハチ」もいた、1968年に登場した海外向けの輸出モデルS800、Sシリーズ第3弾モデルでテールゲートを持つ2シーターのクーペだ、ボディーカラーはホワイト、同じスタンドにレッドの2シーターオープンS800もいた。ホンダ初の市販4輪車(商業車も含めると軽トラックのT360がホンダ初の市販4輪車)として脚光を浴びたS500が登場したのは1963年のことだ、翌年のS600に続き1966年にはS800が発売された。「エスハチ」は4輪スポーツカーとしてはローラーチェーン駆動というユニークなメカニズム(後にノーマルなシャフト駆動に変更された)を持ち、ホンダ特有の高回転高出力791cc DOHC 70馬力の水冷4気筒エンジンを積んでいた。当時モーターサイクル(2輪)レースでは世界グランプリ制覇で名声を得ていたホンダが4輪車においても世界的に名を知らせ始めたのがSシリーズのS600とS800と言えよう。
  • 225. トヨタ セリカAJAスタンドには初代セリカ(A20/30型)もいた、リアにST1600 5スピードのエンブレムが付いている。セリカはスポーティーマインドのヤング層を対象にして「未来から来た車」をキャッチフレーズに1970年に発表された2ドアハードトップクーペでわが国初のスぺシャリティーカーとして話題をまいた、当時ヤング層の一人でカーデザイナーとして出発したばかりの私をドキドキワキワキと興奮させてくれた車だ。その前年、1969年の東京モーターショーで見たセリカのコンセプトカー「EX―1]はどこかデトマゾ マングスタを想い起こさせた。最初に見たセリカ市販車はイキなイエローボディーカラーのやつだった、丸みを帯びた斬新なボディーにインテグレートするU字型のクロームバンパーや精悍なフロントマスクから躍動感が伝わってくる。フォード マスタングやシボレー カマロなどのアメリカンマッスルカーをサイズダウンしたような日本製マッスルスポーツクーペ,あの頃はみんなアメリカに憧れていたものだ。
  • 226. オペル アストラMMデザインで一緒に仕事をしている次女エリカ(経理とマーケティング担当)が交通事故を起こしてしまった。今春(1999年)乗り換えたばかりのオペル アストラステーションワゴンでの出来事だ。このアストラは1997年に発売が開始された2代目アストラGで1.7リットルのターボディーゼルエンジンを積みVWゴルフ、フォード フォーカスをダイレクトコンペティターとするモデル。事故を起こしたのはA8有料高速道路のゆるいカーブが長く続く下り坂で両側のガードには何台かの車の接触したキズがある危険な地区。事故後に彼女が内緒で白状したのは「180km+で追い越し車線を走っていたら前の車がいきなり追い越し車線に入ってきたので目をつぶってハンドルを右に切った」とのこと。アストラは外側のガイドレールにぶつかり反動で追い越し車線に飛ばし返され中央のコンクリートガードに激突して舞い上がり反転して対向車線に屋根から飛び込んでしまい30メートル程滑走して止まった。アストラは大きなダメージで新車購入後わずか8ヶ月で廃車になってしまった。幸運だったのは対向車線に車が疾走してこなかったことだ。シートベルトとエアバッグのおかげで胸に多少の打撲を受けただけで本当に不幸中の幸いだった。
  • 227. VW ゴルフアストラが事故で廃車になってしまったので次女エリカ用の新しいカンパニーカーが急遽必要になった。あれだけの大きな事故で命拾いをさせてくれたすこぶる「安全な車」アストラなのに彼女は「アストラに乗るとまた事故を起こすような気がするので他の車にしたい・・・」と言う。候補に挙がったのはフォード フォーカス、VW ゴルフ、ホンダ シビックの3台。「シビックはインテリアの魅力が欠け、フォーカスは乗り心地が柔らかすぎる・・・」とかの理由でゴルフ ヴァリアント(VWはステーションワゴンと呼ばずヴァリアントと呼ぶ)1.9リッターTDI(ターボディーゼル)を選んだ。ゴルフは歴史的な大ヒット作ビートルの後継車、VWにとって失敗の許されない大切なモデルとして生まれ今ではトヨタカローラと共にワールドワイドのベストセラーカーの一台、1974年に初代モデルが発売されこのモデルは1997年に発売された4代目(Mk4)、2年後にはヴァリアントが加わった。ヨーロッパのスモール/コンパクトカーにもラグジャリー化の波が押し寄せ、4代目のゴルフのインテリアは前モデルよりもデザイン、品質とも大幅に良くなっている。ゴルフは下取り価格が高いので4年毎に買い換えるカンパニーカーにはもってこいの車でもある。
  • 228. フェラーリ モデナ360普段の足にはBMW 5シリーズに乗っているジルさん(私の親戚だそうだ)がウイークエンドカーとしてレッドのボディーにタン・ブラウンインテリアのフェラーリ モデナ360を購入した、3.6リッターV8/ 400馬力のスーパースポーツクーペだ。ところが6ヶ月もしないうちに奥さんの乗車拒否でモデナを手放す事になってしまった、奥さんの乗車拒否の理由は「助手席に座っていると、どこへ行ってもクルマが停まるたびに上から横からジロジロ覗きこまれて気持ちが悪い、おでこや鼻を窓ガラスに擦りつける人さえいる、私は助手席にいるのを外から見えないように小さくちじんでいなければならない、あんなクルマの助手席には2度と座りたくない・・・」とのこと。ジルさんは仕方が無いのでモデナをあきらめグレーのポルシェカレラ4に乗り換えた、奥さんは「これなら大丈夫」だそうだ、何とも贅沢な話ではないか。
  • 229. メッサーシュミットミュージアムやクラシックカーショーなどでは何度も見かけていたメッサーシュミットが日曜日のリスボンの町をトコトコトコ・・・と走っているのに出会った、路上を走るメッサーシュミットの小ささにあらためて驚いてしまう、タンデムシーターの真っ赤なスリーウィーラーは何ともかわいい。 メッサーシュミットといえば第2次世界大戦のドイツ空軍の主力戦闘機、メッサーシュミット機設計者の名でもある。日本のゼロ戦、米国のワイルドキャット、英国のスピッツファイアーと並ぶ名機として名高い。第二次世界大戦後戦闘機の製造を禁止されたメッサーシュミット社は2人乗りタンデムシーターの3輪車(後輪1輪)を手がけ大成功を収めた。発売当初は2サイクル173ccの単気筒エンジンを積んでいた、戦闘機をイメージさせる透明なコクピットのミニカーは「バブルカー」とも呼ばれた。
  • 230. ブガッティー ベイロンベイロンはブガッティー特有の雰囲気をボディー全体で感じさせる優雅なスタイルとその優雅さとはウラハラのとてつもない超高性能とパワーの持ち主だ。フォルクスワーゲングループのフラッグシップにふさわしい8リッターW16(プラス4ターボユニット)1001馬力のエンジンをミッドシップに搭載し最高時速407kmを誇るとんでもない夢のようなウルトラスーパースポーツ。2000年のパリオートショーで初めて見かけたミディアムブルー&ダークブルーの2トーンカラーに塗られたベイロンはオーラがさしているようだった。その後のオートショーでレッド&ブラック、シルバー&ブラック、グレー&ブラック・・・等いくつかの2トーンコンビネーションが見られたが私にはやはり最初に出会ったブルーの2トーンカラーが強く印象に残る。
  • 231. ルノー アーバンタイムルノーポルトガルのマーケティングから電話が入った、やはりデザインマガジンに掲載された私の記事を見たのだという。ルノー アーバンタイム(ニッチマーケットを狙ったクーペとモノスペースビークルのクロスオーバーコンセプトで左右2枚のとてつもない大きなドアとリアハッチバックドアを持つ2ドアクーペ?)の発表会に全国のルノーディーラーのマーケティングの責任者と社外のデザイナーを合わせて200人ほどリスボンに招待するので「オートモーティブカラーストラテジー」のテーマで一時間ほどレクチャーして欲しいと言う。「ツインゴのカラー戦略」、「ニューカラー開発」、「デザインとマーケティングの連携の重要さ」、「流行色(自然発生/意図的に造られる)について」・・・レクチャーした。会場にはブルー&シルバーとレッド&シルバー2台のアーバンタイムが展示されていた。
  • 232. プジョー 206CCプジョー 206CCは1998年のジュネーブオートショーでお目見えしたハッチバックスモールカー(Bセグメント)206の派生車。従来のカブリオレに電動ハードトップを加えた新しいジャンルの2ドア4シーターのクーペ/カブリオレ(通称CC)として1999年のフランクフルトオートショーにショーカー「20」の名でお目見えし、2001年に発売された。私が初めて目にした206CCは鮮やかなオレンジとエレクトリックブルーに塗られた2台でキュートでオシャレな雰囲気を振りまいていた。耐候性、静粛性に優れたメタルトップが、ボタン一つで爽快で開放的なカブリオレに早代わりする、この魅力的で若さを漂わせるCCコンセプトのインパクトは大変なものでニッサン ミクラC+C、三菱 コルトクーペ&カブリオレ、オペルティグラ ツィントップ・・・などのスモールカーに留まらずオペル アストラ ツイントップ、フォード フォーカスCC,ルノー メガーヌCC,プジョー 307CC、VW イオス・・・などのコンパクトカー(Cセグメント)も続々と市場に現れた。「CC」という新しい市場を開拓した206CCの功績は大きい。
  • 233. ルノー ベルサティスヨーロッパの高級車(アッパーミドルカーセグメント)市場はメルセデス Eクラス、BMW 5シリーズ、アウディー A6など・・・いずれも保守的でオーソドックスな3ボックスセダンのドイツ勢に独占されている。ルノーはまともなプロポーションでまともなセダンを創ってもドイツ勢には勝てないことが最初から分かっていたのだろう?このセグメントではタブーと言われる「5ドアビッグハッチバック」スタイリングのコンセプトを1995年にコンセプトカー「イニシアル」として紹介した。1998年のパリオートショーでは生産型に近い4シーターラグジャリークーペコンセプトカー「ヴェルサティス」に進展させ、2001年にサフレーヌの後継車として登場させた。この先進的で斬新なアバンギャルドデザインのルノーのフラッグシップ ヴェルサティスはフランス大統領車としても使用されるほどのエグゼクティブカーなのだが市場では「アグリー」と酷評され、フランス以外の国では冷たい目で見られた。
  • 234. ルノー メガーヌ(2代目)初代メガーヌはルノー19の後継車として1995年にデビュー、 ヨーロッパの激戦コンパクトカーセグメントでVW ゴルフ、フォード フィエスタ、オペル アストラ、プジョー307・・・などをコンペティターとする大切なモデル、万人向けの親しみやすいデザインで大好評を得、万年ベストセラーのゴルフの座を脅かすほどの大ヒットとなった。2002年のパリオートショーで話題をさらった2代目メガーヌ は2001年に発売されたアーバンタイムの先進的でアバンギャルドなデザインキャラクターを踏襲していた。ルノーのドル箱的存在であるメガーヌにこのような強烈なキャラクターのデザインは好き嫌いがはっきり分かれベストセラーを狙う大衆コンパクトカーとしてリスクが多すぎると思えた。ルノーの勇断と決断というよりルケモンデザイン部長の勇気に驚いてしまう、最近のルノーはシトロエン以上に挑戦的で冒険好きの様だ。
  • 235. マセラティクーペカンビオコルサトレーディング会社を営む大変お金持ちな友人が彼の自宅でのバーベキューパーティーに呼んでくれた。ガレージにはイタリア車が3台停めてある、フェラーリモデナ430、マセラティGT,ランチア フェドラの3台で「やっぱりフェラーリが一番良い」と言う、120km制限の公道を270km(150kmオーバースピード)で走っていてパトカーに捕まった人だ(どういうカラクリがあるのか?免停にならず罰金を払っただけで相変わらず飛ばしている)。マセラティークーペの前に来た時「パドルのカンビオコルサをドライブしたことがあるか?」と聞く、「ない」と答えると「それならちょっと乗ってみろ」ということになりホワイトのボディーカラーにレッドのインテリアがまぶしいマセラティークーペカンビオコルサを繰る機会を得た。4.2リッター V8、 32バルブ ツインターボ 400馬力エンジンを積む2シータースポーツクーペでカンビオコルサと呼ばれる6段セミオートマチックギアチェンジはステアリングコラムにあるパドル(右がシフトアップ左がシフトダウン)操作による、2ペダルに不慣れな私は最初いささかとまどったが走り始めてしまえば操作はいとも簡単だ。こういうクルマでゆっくり走れと言うのは無理な相談、彼が時々パトカーのお世話になるのはどうやら仕方の無い事・・・と納得。
  • 236. ポルシェ カイエンレンジローバーが先鞭を付けた高級SUV市場に2002年ポルシェ カイエンが登場した。カイエンはポルシェ初のSUVでVWと共同で開発され、プラットフォーム及び多くのコンポーネンツをVW トゥアレグと共有する。ポルシェの代名詞とも言える水平対向エンジンではなくV8エンジンをフロントに積むカイエンはオンロードでのスポーツ走行とオフロードでのダイナミックな走破性を誇る4WDラグジャリーSUV,ポルシェ初の5ドア車でもある、ラグジャリーSUVとして君臨するレンジローバーにまっ向から挑戦する「リッチマンのSUV」。私は当時三菱ライトピックアップトラックL200ストラカー( 4ドア)4x4、ニッサン テラーノⅡのSUVを乗り回していたのでポルシェからのSUVには非常に興味を覚えた。
  • 237. アルファロメオ 8Cコンペティツィオーネ2003年のフランクフルトオートショーに30~40年代のアルファロメオレーシングカーコード名「8C」を掲げたコンセプトクーペが現れた、メチャクチャに美しくカッコいい!!アルファレッドに塗られたクーペは正式名を「8Cコンぺティツィオーネ」といいフロントにエンジンを積みリアを駆動するクラシックなロングノーズショートデッキスタイルでアルファロメオ久々の本格的2シータースポーツクーペ、完璧に一目ぼれしてしまった、どれほどの時間見とれていただろうか、イタリアンスカルプチャーの凄さ、素晴らしさをひしひしと感じさせる。ショーモデルは3.2リッターV8エンジンを積んでいたが2007年の市販モデルは4.7リッターV8を積む、翌年にコンバーティブル「8Cスパーイダー」が加わった。その後のオートショーでブラック、イエロー、パールホワイトにもお目にかかったが8Cコンペティツィオーネはやはり「アルファレッド」にかぎる。
  • 238. アウディーR8インターナショナルオートショーではいろいろなアイデアを満載した 斬新で革命的なショーカーやプロトタイプを沢山見ることが出来るが2003年のフランクフルトオートショーに現れたガラスフレークがきらりと光るシルバーブルーのコンセプトカー「アウディー ルマン クアトロ」はエレガントな静かさと暴力的な凄まじさを備えていた。R8はルマン24時間レースに参戦するのが目的で開発された「アウディーR8レーシングカー」を基本にしてランボルギーニ ガラルドのプラットフォームをベースにオールアルミ製のボディーを身につけたアウディー初のスーパースポーツカーでポルシェ 911を仮想敵として開発された。4.2リッターV8、 420馬力エンジンをこれもアウディ初のミッドシップに積んだフルタイム4WDで全輪駆動する。ボディーサイドのエアインテークの機能を兼ねた「縦」の強烈なデザインエレメント(ニューグラフィック)がミッドシップとパワーを強調する。フェラーリ、ポルシェに真っ向から挑戦するモデルだ。
  • 239. TVR タイフォンイギリスのTVRはファイバーグラスボディーを持つアグレッシブでパワフルなスポーツカーメーカーとして全世界に知られる。タイフォンはイギリスの「カーキチ」なら誰でも「欲しい」と言うTVRスーパースポーツの一台で、ルマン24時間耐久レースに参戦したT400Rをベースにスーパーチャージャーを搭載したロードバージョン、4.2リッター585馬力を誇るモンスター2ドアスポーツクーペ。タイフォンのカーボンファイバーボディーには見る角度によって玉虫のように美しく色相が変化する(バイカラーとかマルチカラーとか呼ばれる)特殊な偏光性塗料が何色か用意される、中でもバイオレットからゴールド、グリーンにシフトするカラーチェンジエフェクトはタイフォンのアグレッシブなモンスターぶりを遺憾なくアピールする。
  • 240. アストンマーティン DB9アストンマーティンは遠く1914年創業の伝統あるイギリス スポーツカーメーカーで一般的には007映画「ゴールドフィンガー」でジェームス・ボンドの繰る、特殊装備や秘密兵器を搭載して敵に立ち向かうDB5が「ボンドカー」として世界中に知られる。その後何度かの経営危機に瀕しながらもどうにか生き延び、フォード傘下に入ってから「新生アストンマーティン」の最初のモデル V12ヴァンキッシュ(征服者)の発売(2001年)にこぎつけた、V12 ヴァンキッシュは「ダイ・アナザー・ディ」の「ボンドカー」として使われた大迫力のカッコいい4シーター2ドアクーペで新生アストンマーティンのフラッグシップ。DB9は2004年に発売された2+2シーターのクーペモデル(後に追加された2シーターのオープンモデルはヴォランテと呼ばれる)、エレガント&エキサイティングで伝統的ブリティッシュデザインに最新技術がドッキングしたスーパースポーツカー、V12ヴァンキッシュと同じ5.9リッター Ⅴ12 450馬力エンジンを載み、フェラーリ、ランボルギーニ、ポルシェ等と互角に戦えるポテンシャルを持つ、最高に魅力的なクーペ 。
  • 241. クライスラー 300Cヨーロッパ市場でアメ車が受け入れられるケースは少ないが300Cはまれに見るヨーロッパでも「イケる」クルマでたまに巷で見かけるようになった、ヨーロッパでは今や主流のディーゼル仕様を持たないのが販売拡大の大きなネックになっている。2003年のニューヨークオートショーにお目見えし、翌‘04年にアメリカで発売され大ヒットとなった300Cはドイツの信頼性(メルセデスのシャシー/サスペンション)にアメリカの豪快さ(クライスラーの5.7リッターV8ヘミエンジン)をミックスしたニュージェネレーションセダン、レトロモダンのスタイリングは大型クロームグリル、高いウエストラインにチョップトルーフの小さなグリーンハウスでクラシカルで典型的な「マッスルアメリカン」をアピールする。後から追加されたステーションワゴンはウエストラインの高さをより強調させて見せる超アメリカンスタイル、アメ車としてのグッドデザイン賞だと思う、デトロイトの街を大径のクロームメッキ・ホイールを光らせながらV8エンジンでゆったりボコボコボコ・・・と走るブラックの300Cステーションワゴンはヨーロッパでは見られない光景だ。
  • 242. マツダ RX-81999年の東京モーターショーにRX-8の最初のコンセプトカー「RX-エヴォルグ」が登場した。私は2000年のデトロイトオートショーで光輝くオレンジレッドに塗られた精悍なこのコンセプトカーに初めてお目にかかった。「RX-エヴォルグ」は4シーターでスポーツカーとしては特異な「フリースタイルドアシステム」と呼ばれるセンターピラーの無い観音開きの4ドアロータリースポーツクーぺ。生産型RX-8はレネシスと呼ばれる654ccx2ローター自然吸気ロータリーエンジンを積んで2003年に発売開始された。発売直後リスボンの街で見かけたレッドのRX-8は彫刻的でボリューム感溢れるフェンダーが印象的だった。オートショーでは話題になった「フリースタイルドアシステム」は「オリエンタルギミック」のイメージが漂い本格派のスポーツカーを愛するヨーロッパではあまり歓迎されないようだ。
  • 243. マセラティー クアトロポルテヨーロッパのラグジャリーカーセグメントではイギリスのウルトララグジャリーリムジーン ロールスロイス/ベントレー・・・、ドイツのラグジャリーセダン メルセデス Sクラス/BMW 7シリーズ/アウディ A8・・・と一般的には相場が決まっているのだがイタリアンラグジャリーカーとしてマセラティー クアトロポルテを見逃す事は出来ない。2004年に登場した5代目クアトロポルテ(初代は1963年に逆のぼる)はピニンファリーナデザインによるまろやかで優雅な4ドアスポーティーセダン、フェラーリの4.2リッターV8エンジンを積む。クラシカルな伝統美のブリティッシュラグジャリーカーや実質本意なジャーマンラグジャリーカーとは一味異なる情熱的で魅力的なパーソナリティ-カーとしてアピールする。クアトロポルテ(4ドア)はダークブルーのボディーカラーにタンイエローのインテリアがイタリアンビューティーを主張する。
  • 244. トヨタ アイゴヨーロッパ環境汚染規制のCO2 規制をクリアする目標値は各々のオートメーカーのラインアップの平均値なので排気量の少ないミニカー/スモールカーをより多く生産することにより目標達成が有利となる。ところがミニカー/スモールカーは低価格なので販売台数でマージンを上げなければならない。そこでトヨタは本格的なヨーロッパ進出にあたりプジョー、シトロエンと3社共同で軽量化とコストの合理化を最重点としたスモールカーを開発/生産するため3社共同出資会社「TPCA(トヨタ プジョー シトロエンオートモビル)」を設立した。プラーットフォームを共有しながら3社がそれぞれ独自のブランドアイデンティティーをアピールする、トヨタアイゴ、プジョー107、シトロエンC1の3車が2005年のジュネーブオートショーでお目見えした。アイゴは「I-GO」の造語で3ドア及び5ドアハッチバック、発売当初は3シリンダー1.0リッターガソリンエンジンのみでスタートし、翌年1.4リッターディーゼルエンジンが加わった。
  • 245. シトロエン C6久々に独創性に富んだフランスらしさを振りまく魅力的な車が現れた。1998年パリオートショーにデビューしたコンセプトモデル「リナージュ」をベースに2005年に発売されたシトロエンのフラッグシップ C6がそれだ。メルセデス Eクラス、BMW 5シリーズ、アウディ A6等のジャーマンプレミアムカーが幅を利かせるアッパーミドルカーセグメントへの挑戦となる。かつてのDS、CX、XMを思い出させる「ユニークなシトロエン」の再来で5メートル(全長)に近い堂々としたボディーのフロントエンドは「ダブルシェブロン」を強烈に押し出す、リアエンドは不思議なフォルムをしたテールライト、コンケーブ(凹面)のリアウインドウ・・・等などシトロエン特有のおかしな?造形で思わずにんまりしてしまう。正式にはXMの後継車という位置付けでサスペンションはもちろんシトロエンが誇る最新の「ハイドラクティブⅢ」、エンジンは3リッターV6ガソリンと2.7リッターV6ターボディーゼルが用意された。
  • 246. ルマンのアウディディーゼルカー2006年、「ディーゼルレースカーがルマンに勝つ!」のニュースは衝撃的だった。アウディーはガソリンエンジンレースカーR8でルマン24時間レースを5回も制覇しているのでR8の後継車、ディーゼルエンジンのR10に世界の注目が集まっていた、搭載されたエンジンは世界初のオールアルミ製で5.5リッターV12ディーゼルツインターボ(TDI)650馬力、ディーゼルエンジンはトルクが高く燃費が良いので耐久レースには向いている・・・と昔から言われながらも今までなかなか実現出来ないでいた、改良による改良でついに実現させたのだ、ディーゼルパワーを見せつけて優勝したR10はカーナンバー8のF.ビエッラ、E.ピロ、M.ブェルナ組だった。翌07年にはプジョーもクローズドボディー(アウディーはオープンボディー)のディーゼルレースカー908をルマンに持ち込みアウディーR10との「史上初のディーゼルカーの対決」となった、結果はカーナンバー8のアウディーR10が昨年に続く2連勝となったがプジョー908は初参戦で2位という快挙を挙げた、まさに「ディーゼル時代到来」だ。
  • 247. ミニクーパーS2007年2月26日に還暦を迎えたのでここらでもう一度楽しい車に乗ってみようと思いたった、条件はあくまで一人でスポーティーに乗り回す(日本だと「年寄りの冷や水」とか「いい年こいて・・・」などといわれるに違いない)、横に乗せるパッセンジャーの乗り心地など全く考慮に入れない・・・、面白そうなクルマを物色してはテストドライブを繰り返していたのだが最終的にマツダMX-5(ハードトップ)とミニクーパーSの2台に興味が絞られた。そこでこの2台をもう一度乗り比べてから決める事にした、ミニディーラーに出向くと旧モデル(2006年型)のシリーズⅠ(2006年にシリーズⅡが発売された)が1台新車のままストックしてあるという、早速シリーズⅠ、シリーズⅡの2台を走り比べてみると旧モデルのシリーズⅠの方が圧倒的に楽しい、シリーズⅠは1.6リッター168馬力の「スーパーチャージ」エンジンなのでシリーズⅡの「ターボチャージ」エンジンとは走り方がまるで違う、「ターボ」もいいけれど「スーパーチャージ」は低回転からコンスタントにパワーが得られ、私の走り方にはぴったりなのであえて「一年遅れの新車」を購入してしまった、シルバーのボディーにブラックのルーフ、プレートナンバーは74DT26。
  • 248. マツダ MX-5初代MX-5は日本名ユーノス ロードスターとして1989年にデビューした。登場する以前はイギリスのMGやロータスエランがライトウエイトオープンスポーツカーとして長い間君臨してきた、アメリカでは「ミアータ」と呼ばれるMX-5は「人馬一体感」をテーマに開発され、フロントエンジン・リアドライブの典型的なスポーツカーレイアウトを持つ、リーズナブルな価格でアメリカを始めとする全世界の市場で大ヒットしライトウエイトオープンスポーツカーの代名詞といわれるまでに親しまれている。還暦記念に手に入れるつもりだったのにミニクーパーSの「スーパーチャージ」エンジンに心を奪われてMX-5を買い損ねてしまった。キャンバストップよりもハードトップの方が好きな私は2006年に発売された3代目MX-5の1.8リッターエンジン(2リッターより軽くて魅力的)のロードスタークーペRHT(電動格納式ハードトップ)に目を付けて、ソリッドブラックのボディーカラーにブラウンのインテリアという仕様まで決めていたのだが・・・。
  • 249. ラファ君とガビちゃん2人の娘(理奈とエリカ)は2人とも結婚寸前までは「結婚なんかしたくない」、「子供を育てるなんて真っ平だ」なんて言っていたので孫の事は半ば諦めていたのだがうれしい事に2006年9月20日、待望の初孫が生まれ(次女エリカの長男でポルトガル国籍)やっとおじいちゃんになれた。ラファエル・ビセンテ・ミヤカワ・パイションという長い名前だが通称ラファ君! かわいい、とにかくかわいい、孫がこんなにかわいいものだとは夢にも思っていなかった。そして2008年12月17日、2人目の孫(長女理奈の長女で日本とポルトガルの二重国籍)が産まれた。ガブリエラ・キアラ・ミヤカワ・フェレイラとこれもまた長い名前だが通称ガビちゃん!もしくはキアラちゃん! キアラちゃんもメチャクチャかわいい・・・そういうわけで今はメロメロな「おじいちゃん家業」をやっている、1人でぶっ飛ばすために購入したミニクーパーSの後席は2つのベビーシートが取り付けてある、孫達を乗せて走る時は超安全走行で決して飛ばさない。
  • 250. WTCC2007年WTCC(世界ツーリングカー選手権)ポルトガル戦はポルトのボアビスタレース場で7月7,8日に開催された、海辺の公道レースでかつてF-1レースが開催された事もある。WTCCはもともとはETCC(ヨーロッパツーリングカー選手権)が2005年に世界タイトルをかけたWTCCにグレードアップしたものでFIA公認の3つの世界選手権タイトルレース(F-1、WRC、WTCC)の1つとなる。市販車ベースのツーリングカーレースなので親しみやすい、元F-1 レーサーのポルトガル人ティアーゴ・モンテイロがセアト レオン TDI(カーナンバー18)で出場するのでファンが詰めかける、TDIが示すようにセアトはディーゼルエンジンを積む。BMW320i、セアト レオン、シボレー ラセッテ3強豪にアルファロメオ156、ホンダ シビック、トヨタカローラ・・・などが混じっている。リバースグリッドという面白いスタートシステム(第1レースの1位から8位が第2レースでは逆オーダーでスタート)で各イベント毎に2レースが行われる。ボアビスタでは第1レースがシボレーが1,2,3フィニッシュ、第2レースではBMWが1,2フィニッシュ3位にシボレーが入った。疾走する姿はレッドのアルファロメオが断然カッコ良かった。
  • 251. BMW 1シリーズ2007年、ヨメさんのカンパニーカー買い替えに当たり、いくつかの条件を分析して見た。ヨメさんは「6段ギアチェンジでも4段までしか使わない」、「120km制限の高速道路でも100kmでトロトロ走る」、「ノブやボタンのコントロール類は少ないほど良い」、「クルマのサイズはスモールかコンパクトに限る」、「メーター類はシンプルでオーソドックスなアナログが良い」、「夜は運転しない」・・・と言う事でBMW 1シリーズ、ホンダシビックハイブリッド、アウディー A3、VW ゴルフが候補に挙がり試乗の末1シリーズに決まった。1シリーズはBMW初めてのハッチバックモデルで3シリーズ3ボックスセダンのプラットフォームをベースにしたプレミアムコンパクトカーでBMWのエントリーモデル。2リッターターボディーゼルエンジンの120dは17インチホイールにランフラットタイアを履く。1シリーズはヨーロッパのコンパクトカー市場で唯一のFR方式でBMW特有のスポーティーな走行性能を誇る。
  • 252. VW ティグアンVWのSUV/4x4への提案は「バギーT」に始まり2006年のロスアンジェルスオートショーではスポーティーなオレンジに塗られた「コンセプト-ティグアン」に進展した。2007年フランクフルトオートショーに現れた2台の生産型ティグアンはホワイトボディーにブラックのインテリア、見た瞬間これはラブ4が危ない!と思った。トヨタ ラブ4、ホンダ CR-V,ランドローバー フリーランダー・・・などで円熟しかけたヨーロッパのコンパクトSUV市場に満を期して登場、販売が開始された。長年間SUV市場のベストセラーを続けて来たトヨタ ラブ4(当時このセグメントは日本車がほぼ独占していた)をあっという間に追い越してしまった。2002年に発売されて以来大成功を収めているVW初のSUVトゥアレグの弟分なので「スモールトゥアレグ」の愛称もある。グリルにはクロームのVWエンブレムが力強さをアピールする。
  • 253. 大気汚染ブタ環境汚染の話となると真っ先に攻撃の的とされるのがクルマ達、日常生活の便利さ快適性を与えてくれる大切な交通手段の1つであることなどすっかり忘れて「社会の敵」扱いを受ける。2007年フランクフルトオートショー会場入口の「3匹の豚」、CO2 を撒き散らす大気汚染の悪玉としてBMW 7シリーズ、VW トゥアレグ、アウディーA6アバンテがピンクの豚に祭り上げられたのを見てとても嫌な気持ちにさせられた。「第2次世界大戦の敗戦国ドイツをここまで盛り上げられたのは強力な自動車産業のおかげではないか!」と呶鳴りたくなる。今回のオートショーのテーマは「グリーン」、昨今の地球温暖化によるヨーロッパ大陸での猛暑、大雨、洪水・・・などの気象異変は一般市民にも恐怖を伴う認識となって現れ始めた。ヨーロッパオートメーカーも重い腰をようやく上げ燃費向上、CO2 エミッション低下に本格的に取り組み始めた。
  • 254. ランボルギーニ レベントンレベントンの名はランボルギーニの定義どおり獰猛な闘牛の名前から来ている、2007年のフランクフルトオートショーに現われたレベントンはカーボンファイバーボディーが「ミッド オパーク グレー」と呼ばれる凄みを帯びたツヤ消しグレーで塗装されていた。レベントンは6.5リッターV12エンジンをミッドシップに積むフルタイム4WDウルトラスポーツカーでムルシエラゴLP40をベースに最新鋭ジェット機をモチーフとしたアグレッシブなデザインが与えられた。20台の限定生産でボディーカラーは「ミッド オパーク グレー」一色に統一される。2009年にフランクフルトオートショーで現れたレベントンロードスターはやはり20台の限定生産でボディーカラーも「ミッド オパーク グレー」一色のみ。
  • 255. フィアット 500(チンコチェント)ニュー500は2004年のジュネーブオートショーで「レトロ・フューチャリズム」を唱うショーカー「トレピウーノ(3+1)」の名でコンセプトが紹介され、2007年のフランクフルトオートショーに生産車としてお目見えした。フィアットブースには実寸の5倍もある巨大なニュー500のモックアップが現れショーの「大目玉」となった。ニュー500はトポリーノ(ハツカネズミ)の愛称で知られる初代(1936年)、2代目500(1957年)についで3代目となる。ショーで初めて見たパールホワイトのニュー500はとてもかわいい!インテリアもこのクルマにはぴったりで大ヒット間違いなし!レッドもイエローもブラックもよく似合うキュートな楽しい親しみのあるミニカー。デザインは大成功を収めた2代目500にインスピレーションを得たレトロモダン、私はレトロデザインをあまり好まないがニューミニとニュー500だけはまあ良しとしておこう。ニュー500は「2008年度ヨーロピアンカー オブ ザ イヤー賞」に輝いた。
  • 256. バイオディーゼルアドベンチャー2008年6月の思い出、アドベンチャーフォトグラファーでバイオディーゼルアドベンチャーの山田周生さんがトヨタ ランドクルーザーで、使い古しの天ぷら油からランクルのラゲージルームに特設された超小型精製装置でバイオディーゼルを自製しながら世界一週の旅に出られ、カナダ、アメリカを経由してヨーロッパでの第一歩のポルトガルに到着、リスボン滞在中の2週間は私がお付き合いする事になった。昼間はレストランを回って廃食油を集め、夜はそれを精製してバイオディーゼルを作るというプロセスの連続、肉体的な強さもさることながら、人並みはずれた強い精神力が無ければとても続けられない重労働の繰り返しだ。アドベンチャーカーのランクルは4.2リッターバイオディーゼル、ボディーカラーは見る角度によってグリーン、ブルー、ゴールドに変化する「地球に優しい環境保護色」イメージの魅力的な塗料「マジョーラ」が塗られている。アドベンチャーカーの愛称「バスコ5」はまだロゴタイプが無かったので私と一緒に仕事をしている長女理奈(デザイナー)がロゴタイプをデザインしデカールにしてクルマに貼り付けてあげた。周生さんたち3人はポルトガルでのアドベンチャーを無事終わり次の目的地アフリカのモロッコ目指して元気に出発された。
  • 257. フォード GT402008年夏、イギリスのブラックレイに在るホンダF-1レーシングチーム(その後ブロウンGPとなりそしてメルセデスGPとなった)のエアロダイナミックスエンジニアとして働く長男ビクトーを尋ねた時、近くにあるシルバーストーンレース場に出かけた。イギリスはアマチュアレーサー達が週末にいろいろなカテゴリーのレースをやるのでレース場はいつ行っても何らかのレースを見ることが出来る。私が訪れた時はケイタハム、ロータスセブン、ルノーフォーミュラカップ・・・のんびりと見られるのどかなレースをやっていた。パドックの入口に停めてあったブルー&オレンジのガルフカラーのフォードGT40はやっぱりカッコいい!ベタッと地を這う姿は大迫力、車高が40インチであることがGT40のネーミングの由来という、1964年のルマン24時間レースに初登場し‘66,‘67,‘68,‘69年の4年連続優勝という快挙を成し遂げた。
  • 258. アメリカン レトロモダン ポニーカー2000年初めに吹き始めたアメリカンレトロモダンデザインカーの「風」はポニーカーにスポットが当てられた。まずフォードが2005年に5代目となるニューマスタングが初代(1964年)のスタイリングに最新技術をドッキングしてレトロモダンポニーカーとして登場しアメリカ市場でセンセーショナルな人気を呼んだ。その「風」に遅れまいと2008年には3代目のダッジ チャレンジャーが初代(1970年)のレトロモダンポニーカーとして登場、2009年には5代目シボレー カマロが初代(1967年)のレトロモダンポニーカーとして登場した。‘60年代半ばから‘70年代初頭にかけてアメリカンポニーカー市場をにぎわした3台がいずれも初代のレトロモダンデザインで40年後に舞い戻ってきたわけだ。今思えば、あの頃がパワフルで自由奔放に満ちた自信満々のアメリカンデザインの絶好調であったような気がする。
  • 259. ブロウンGP長男ビクトーが働くホンダF1レーシングチームはホンダの突然の撤退によりロス・ブロウンの手に渡り2009年シーズンは「ブロウンGP」として生まれ変わった。ビクトーは引き続きブロウンGPの空力エンジニアとして働く事になった。シーズン開幕当時、リアの「ダブルディフゾールコンセプト」でフェラーリ、マクラーレン、レッドブル等の強豪チームにエアロダイナミクスの高効率とスタビリティーの優位さで大きくリードし初戦で優勝、その後前期7戦中6勝という全く予想外の活躍ぶりを見せ参戦初年目にしてドライバー、マニュファクチャラー両方のチャンピオンに輝いてしまった。ホワイトボディーにグリーンイエロー&ブラックのストライプの走るカラースキムは登場当時弱々しく見えてなんとなく「さえない」デザインに思えたが勝ち始めると力強くカッコいいマシーンに見えてきたから人間の感覚なんていいかげんなものだ。2010年シーズンの「ブロウンGP」は「メルセデス・ペトロナスGP」に生まれ変わり偉大なチャンピオン ミハエル・シューマーハーとニコ・ロスバーグの2人のドライバーで戦う。私がメルセデス・ペトロナスGPを応援するのは言うまでも無い。
  • 260. 空手/ポルトガルの将軍道場空手は18歳の時日本空手協会(松涛館流)から芸大に指導員として来ておられた越智先生のご指導を受けて始めた、越智先生は今でもドイツで空手指導を続けておられる。社会人になってからは勤務先(いすゞ藤沢工場)の近くに在った新倉先生の綾空会(綾瀬市)道場で汗を流した。1976年、ブラジルに移り住んだ私はGMブラジルで働き始めた翌日からGMスポーツクラブの芝生でエイヤーと1人で稽古をしていた、数日後スポーツクラブのプレシデントがクラブの道場で空手を教えてくれないかと言う、こうして週2回の空手クラスが誕生「綾空会ブラジル」と命名した。生徒達は何年か後にはサンパウロ州大会、ブラジルナショナル大会等に参加するようになった。仕事の都合で1991年にポルトガルに移り住んでからはポルトガル松涛館連盟に加入している「将軍道場」で道場主のアントニオ・ぺスターナ先生のお手伝いをしながら夜週3回(月水金)汗を流している、「将軍道場」入門時に学生時代から45年も続けてきた長髪をすっきり刈り取り「丸坊主頭」になり「心と気持ちの入れ替え」をした。私の「坊主頭」はヨメさん始め我が家では「かっこ悪い、ギャングみたい・・・」とかですこぶる評判が悪い。
  • 261. ルノー アルピーヌ1963年に発売されたミケロッティ-デザインのFRPボディー・2シータースポーツカー。‘70年代初頭のラリーでの活躍で(1973年WRC優勝)世界的に有名なアルピーヌA110は最も好きな車の1台なのだが、とある事からそのFRPのボディーの修復を頼まれて1週間ほど私のガレージに停まっていた事がある。カートドロモ(ゴーカート場)のオーナーで今でもクラシックカーレース等に参加している「カーキチガイ」のアマデウさん(60何歳?)が「レースで他車に接触してリアコーナーをぶつけFRPのボディーにダメージを受けたのでどうにかして欲しい」と言う、修復中はブルーのボディーをなでながら「いいクルマはやっぱりいいなー」と改めて感心してしまう。このままウチのガレージにいれば最高なのに・・・。カートドロモを共同経営するアマデウさんの息子ヌーノさんは茨城に本部道場がある入間流合気道二段の腕前、日本語を少し話し愛犬にブドー(武道)と名を付けるほどの日本びいき、カートを走らせるとメチャクチャ早い。
  • 262. エオリカエネルギーエオリカエネルギーで最も印象に残る風景はイギリスのヨークシャー地方をクルマで走り回った時、何キロも続く山並みに延々と見られたホワイトのエオリカ(風車)群、山の上で何十ものローターが静かに延々と回り続けるのはなにか未来的で吸い込まれそうな光景だった。ポルトガルではエネルジア・エオリカ(風力エネルギーを意味し通常エオリカと呼ばれる)第1号が1986年にマデイラ島に設立されその後急速に全国に設置され始めた。2009年4月時点で国内全電力消費の13%を賄うようになっている、この数値は全世界でデンマークに次いで第2位(近将来第1位になると予想されている)、もともと風車(旧式の帆付風車)の多いポルトガルは風力エネルギー利用に非常に関心の高い国である。自然の風を利用しての発電で燃料を必用とせず排気汚染の無いことから「環境に優しい発電システム」とか「クリーンエネルギーシステム」とか呼ばれて将来を期待されている。
  • 263. トヨタ カローラ(2代目)1966年発売された初代カローラは日本市場でダイレクトコンペティターのニッサンサニー1000ccに対しオーナーのお買得感、優越感をくすぐる「プラス100ccの余裕」をキャッチフレーズで大ヒットを飛ばしたちまちベストセラーの名を欲しいままにした小型大衆車。そう言えばいすゞデザイン在籍時代(1970年)同期のデザイナーがソリッドホワイトの初代カローラで雨の日横浜市内の市電のレールに滑り、半回転してルーフでレールの上を20メートルほど滑走して止まった。幸い無傷で散り飛んだフロントウインドーから這い出したそうだ。2009年、自宅から40kmほど北に在るロウリニャン市で開催された「クラシックカーの集い」に出かけた時に手入れの良く行き届いたホワイトの2代目カローラ(1970年発売)に出会った。この集いはクラシックカークラブのメンバーでなくても参加費を払えばクルマを展示することが出来、ロリニャン市生協でご自慢のぶどう酒で昼食をとり、午後からは隣接するボンバハル市に在るインターナショナルカートサーキットで愛車に鞭打ってタイムトライアルにアッタクする面白い集いだ。
  • 264. ダットサン 5102009年のロウリニャン市の「クラシックカーの集い」で出会ったもう1台の懐かしい日本車はダットサン510(日本名ブルーバード)1600SSS。510の1つ前のモデル410はピニンファリーナのデザインしたリアーエンドがお尻下がりのしまりの無いデザイン(当時ヨーロッパでは多くのオートメーカーがエアロダイナミクス効果のある手法として取り入れていた)であまりパッとしなかった。1967年に登場した510は「技術のニッサン」を謳うニッサン初の4輪独立サスペンションを備えデザインは直線を基調とした(スーパーソニックラインと呼ばれた)すっきりした力強さにまとめられていた。市場では大好評でライバルのトヨタ コロナを退けファミリーカーのトップセラーとなった。この510を見掛けた時、ふと雪の白樺湖を思い出してしまった。大学時代の冬休み、お正月を家族と共に過ごすため静岡に帰った折に友人のブルーの510で白樺湖にアイススケートを楽しみに行った思い出があるからだ。
  • 265. ミニチャレンジ2009年「イベリア・ミニチャレンジ」はスペインが主になって開催されるイベントだがポルトガル戦はリスボンのエストリルレース場で金曜日プラクティス、土曜日予選、日曜日決勝というスケジュールとなった。BMWポルトガルに勤務する婿ダニエルがポルトガル戦オーガナイザーメンバーなのでパドック(ピット)でじっくり観戦出来る。土曜日の予選レースで優勝候補のスペインチームが他車と事故って、フロントの両輪がひん曲がるほどの大きなダメージを受け走行不能となってしまった。それを元に戻す特殊ジグの有るリスボンBMWディーラーにトレーラーで運び込んだ、ダニエルがディーラーでの回復作業の責任を持つ事になったので私は面白がってついていった。定盤(ジグ)に固定されたミニに6人のスペイン人スタッフがかなり乱暴な突貫作業にかかった,明日のレースに間に合わさなければならないので徹夜作業だ。彼らはさすがに慣れたもので朝の6時にはどうやら走れるように組み上がっていた、えらいもんだ!決勝レースでは徹夜の努力も空しく電気系統のトラブルでリタイアしてしまった、本当にお疲れさん!
  • 266. トーマスとフレンズ4歳になる初孫のラファエル君はパパ(バイク&カーキチ)と私(カーキチのおじいちゃん)の影響で大のクルマとバイク好き、ラファエル君の部屋はクルマ、クルマ、クルマのおもちゃで足の踏み場のないくらいだ。そして最近は列車も好きになり始めトーマス&フレンズのミニチュアコレクションが始まった、色とりどりのほぼ全コレクションが床に敷き詰めたレール上にびっしりと置いてある、やれパーシーだ、エドワードだ、モーリーだ、スカーレーだ、ヘンリーだ・・・と孫と一緒に遊んでいるうちにすっかり名前を覚えてしまった。トーマス&フレンズのコレクションは何やかやと毎月ニューモデルや本やDVDが出るのでパパもおじいちゃんもいい迷惑だ・・・なんてぶつぶつ言いながらかわいい孫にねだられると「はいはい」と喜んで買ってしまうのだが・・・
  • 267. ソフィスティケートインテリア近年のクルマのラグジャーリー&スポーティー志向はもはやミニカーセグメントのベースカーにまで及んでいる。そこでロールスロイス、ベントレー、アストンマーチン、マセラティー、ブガッティー等のウルトラ高級車には他のセグメントではまねの出来ないウルトララグジャリーで優雅な風格と品質を備えたデザイン&トリートメントのインテリアが用意される。厳選されたマテリアルを使用したインスツルメントパネル、ドアトリム、シート、コンソール、カーペット・・・等が1色で統一されたモノクロマチックインテリアもそのひとつ、トップグレードのナチュラルウッドやレザーも惜しみなく使われる、1台1台丁寧に造られるハンドクラフトインテリアはカラーバリエーションもベージュ、レッド、グレー、ブルー、ブラウン、タン、ブラック・・・と豊富で他のセグメントでは見られないソフィストケートしたゴージャスなパーソナルインテリア空間を演出する。
  • 268. ジャギュア XF2007年のデトロイトオーショーでジャギュアの4ドアスポーツコンセプトカー「C-XF」がシルバーに塗装されてお目見えしたのを見てアレッと思った。コンサーバティブでクラシカルなブリティッシュラグジャリースポーティーサルーンの伝統を守り続けて来たジャギュアのデザインディレクションに大きな変更の兆しが見られる。従来のオートショーではジャギュアカラーの代名詞とも言えるブリティッシュグリーンに塗られたクルマが並んでいたジャギュアスタンドが今回のショーではシルバー一色でイメージチェンジを強烈にアピールする。生産型XFは2009年Sタイプの後継車として発売された、XFはSタイプの優雅な4ドアサルーンから斬新なスポーティー4ドアクーペに変身し、メルセデス Eクラス、BMW 5シリーズ、アウディーA6・・・をメインコンペティターとする「E」セグメントのアッパーミドルカー。ジャギュア特有の伝統美を持つXJが好きな私は未だにXFがジャギュアとして受け入れられずにいる、こまったものだ。
  • 269. BMW Z42009年に発売された2代目ニューZ4のポルトガルへの第1号車が届いたので走ってみるか?と言う、BMWポルトガルでは通例として第1号車は宣伝も兼ねて新聞/雑誌社のレポーターに試乗車として提供する事になっている、婿のダニエルはレポーターに渡す前に試乗してコンディションをチェックするのも仕事のうちだ。ブルーメタリックのZ4の助手席に座り込んでインテリアの豪華さにまず驚いてしまう、スポーツカーどころかラグジャリーカーそのものではないか!2.5リッター直6エンジンは204馬力で最高速はリミッターで250km/hに抑えてある(ドイツのプレミアム3社、BMW/アウディ/メルセデス間の紳士協定だと聞く)、レポーターがすっ飛ばすに決まっているので高速での安定性と居住性を確認するため早朝のハイウエーでリミッターの働く250km/h走行を連続5分間何回か確認しておくというのが今日の主目的、230km/hを超えるとエンジン、音風切り音が微妙に変わるがあっけなく250km/hに届いてしまい安定したリミッター走行を続ける。
  • 270. ヨーロッパのブラウンブラウンはべージュ、グリーン、パープルと共に長い間ヨーロッパ市場ではなかなか定着できないでいるカラー。それでも近年はゴールド系、パープル系、ブルー系、オレンジ系・・・と様々な方向で「新しいニュアンスのブラウン」が少しずつ受け入れられるようになってきている、。低明度でも難しいブラウンが2009年のフランクフルトオートショーの注目色として現れた。BMWは中明度のゴールドブラウンをスポーティーイメージのアクティブカラーとしてニューモデルのコンパクトSUV X1でアピール,アウディはやはり中明度のオレンジブラウンをスポーツクーペTTとフルサイズラグジャリーSUV Q7に塗って注目を浴びた。パープル系、グレー系の落ち着いた優雅さ/重厚さを見せるダークブラウンはロールスロイスやベントレーのようなウルトララグジャリーカーセグメントでは将来欠かすことの出来ないカラーになりそうだ。
  • 271. ヨーロッパのパープル/バイオレットパープル/バイオレットはブラウン同様、ヨーロッパ市場ではなかなかポピュラーになれないでいるカラー。ニッチマーケットのスペシャルカラーや人目を引かせるプロモーションカラーとして時折アピールするが定番色と呼ばれるには程遠い位置にいる。ラグジャリーカーセグメントではその「稀少性を」大切にして他のセグメントでは見られないグレーやブラウンとの微妙なかみ合い(インフルエンス)を見せる高貴でセクシーなパープル/バイオレットが現れ始めている。ロールスロイス ファントム/ドロップヘッドクーペはブラウン味を帯びたグレーバイオレットのボディーに鈍い光を放つヘアーラインテクスチャーのステンレススチールボンネット/グリル/Aピラーとの妖美なコンビネーションでなんとも神秘的でウルトララグジャリーカー特有の高貴なイメージを醸し出す。
  • 272. ドゥカッティ 1198息子ビクトーがヤマハ、ホンダ CB600Fネイキッドと乗り換えて2010年モデルのドゥカッティ1198を購入した。購入にあたりホンダ/ヤマハ/スズキ/カワサキ/BMW/アプリリア・・・など1000~1300ccクラスのビッグバイクを比較検討の末レッドのドゥカッティに決めたのだという。「性能、信頼性、耐久性、価格、メインテナンスコストではホンダ VFR1200Fを始めとする日本のバイクに軍配が上がる、現時点でBMW S1000RRが多分1番アドバンストバイクだろう」と言う。信頼性にも先進性にも他のバイクに及ばず高価格なドゥカッティに決めた唯一の理由は「他のバイクに見られないドゥカッティ特有のデザインの美しさとオーラのある存在感、ナイスクラフト!」なのだそうだ。F-1レーシングチームの空力エンジニアがデザインの美しさとエモーションでバイク選びをするとはおかしな話ではなかろうか?
  • 273. レンジローバー イヴォーク2008年のデトロイトオートショーにパールホワイトに塗られた意欲的なコンセプトカー「ランドローバーLRX」がお目見えした。当時アメリカ市場では今まで大好評だったSUVが原油価格高騰とディーゼルエミッションの規制などで「環境汚染の敵」とされ、SUVに対する風当たりが大変大きくなっていた。ランドローバーはこの様な逆風に対し小さなボディーに環境にやさしい省燃費のエコエンジンを積む軽量なプレミアムコンパクトSUVを提案した。エッジシェープの精悍でアバンギャルドなデザインはかつてのランドローバーには見られない新しい方向性を見せる。「キングオブオフローダー」/「砂漠のロールスロイス」と言われるレンジローバーのブランドイメージを大きく変えてしまいそうだ。2011年に発売されたイヴォークが街を走るのに最初に出会ったのはレッドのやつだった、オートショーで見たプロトタイプそのものが走っているイメージだ。ルーフを別色とする2トーンカラーはイヴォークにはお似合いで私の愛車ミニクーパーSをスケールアップした様な躍動性とスポーツ性を感じさせる、最近まれに見るスタイリッシュでエキサイティングなモデル。
  • 274. メルセデス SLKメルセデスAMGペトロナスF-1チームに働く息子ビクトーからソリッドホワイトのSLK350AMGの写真がメールされてきた、レトラクタブルハードトップ(メルセデスではバリオルーフと呼ぶ)を備えた2シーターロードスターでニュージェネレーションV63.5リッターCGI(チャージドガソリンインジェクション)エンジンを積む昨年(2011年)モデルチェンジしたばかりの3代目SLK。F-1チームスタッフには毎年ニューカーを安くリース出来る優遇システムがあり昨年のCクラス250CDI(チャージドディーゼルインジェクション)4ドアからこのSLK AMGに乗り換えた。先週末(3月末)入車したのだそうだ、インテリアは外から見るほど狭くなく身長197cmのビクトーでもパノラミックルーフと呼ばれるガラスルーフのおかげで頭上にこぶし2個のクリアランスがあるという。「CクラスCDIは快適でラグジャリーでセダンとして申し分の無い良く出来た車だが運転する喜びが感じられなかった・・・今度のSLK AMGはデザインも走りっぷりも良く、ハンドルを握るのが楽しい、トランクルームも良く出来たバイオルーフシステムのおかげでゴルフバッグが楽に納まる・・・」と言っている。
  • 275. ミュンヘン セントラル ステーション2012年の夏休み、7月の丸1ヶ月をミュンヘンでのんびり過ごした。アルゼンチンのブエノスアイレスに2年間住んでいた次女エリカの家族が突如ミュンヘンへ引っ越した、アルゼンチンBMWでモトラッド(モーターサイクル)部門のマネージングディレクターをやっていたダニエルがミュンヘンのBMW本社に転勤になったからだ。彼らの新住居はミュンヘン空港からミュンヘン市内に向かうS1の電車で5つ目の駅、オーバーシュライスハイムにある。9月に6歳になるラファエル君は列車が大好きなのでICE(Inter City Express)を見にセントラルステーション(Munchen Hauptbanhof)へ出かけた。列車のホームが36もある大きな駅でディーゼル列車がかなり見られるせいか東京駅というより一昔前の上野駅の雰囲気を感じさせる。ベルリン、コルン、フランクフルト、ハンブルグ行き・・・など国内の主要都市はもちろんのことブタペスト、プラハ、ウイーン、ザルツブルグ行き・・・など国境を越えた都市への長距離国際線も多数乗り入れる。36のホームの他に何本ものSバーン(近距離鉄道)、Uバーン(地下鉄)も乗り入れるたいへん賑やかで活気に満ちているステーションだ。
  • 276. BMW モトラッド デーズ 2012毎年7月の第1週末金、土、日の3日間にわたって開催されるモトラッドデーズ(モーターサイクルライダーズミーティング)は今年で12回目となる。7月7日土曜日の朝早くダニエルとラファ君の3人でBMW 1シリーズに乗って出掛けた。会場はミュンヘンから90kmほど南、オーストリア国境近くのシークシュピッツェマウンテンのふもとガルミッシュ・パルテンキルヘンというウインターリゾートとして名高いアルペンの町、1936年冬季オリンピックがそして1978年と昨年2011年にはアルペンスキーの世界選手権が開催された。何千ものバイクがヨーロッパを始め世界中から集まってくる、もちろんボクサーエンジンが大半を占めるがハーレーダビットソンの根強い人気もあらためて知らされる。今年は3万5千人以上のモーターサイクルファンが集まったそうだ。ホテル(1年前に予約を入れなければならないとか)に泊まらない人たちの何百のも色とりどりのテントがキャンプ場にひしめく。バイク試乗会、オフロード体験・・・などの楽しいイベントが催されるが、4回ものスタントライディングワールドチャンピオンに輝くクリス・ファイファーの神技ライディングにはすっかり陶酔してしまった。夜はミュージック、キャンプファイアー、ビールのドンちゃん騒ぎ!!
  • 277. テスラ ロードスターモトラッドデーズ会場からミュンヘンへの帰り道アウトバーン95のガソリンスタンドで充電中のブルーのテスラ ロードスターを見かけた。「ゼロエミッション」、「何時でも何処でもチャージ出来る」のキャッチフレーズで2008年に市場(プロトタイプは2006年)に現れた「プラグ・イン・チャージ」システムのバッテリー式(リチウムイオンバッテリー)プレミアムエレクトリックカー、米国カルフォルニアに本拠を持つテスラモータースの第1弾。謳い文句のとうり特定のステーションではなく普通のガソリンスタンドのコーヒーショップのコンセントからフューエルリッド内の充電コネクターに接続して充電していた、ドライバーはコーヒーで一息入れている。このテスラ ロードスターはサイドマーカーが有り、リアフォグランプの無いアメリカンバージョン! どうやらドイツの電機会社のテスト車らしい、制限速度の無いアウトバーンで過酷な耐久/耐候走行テストを繰り返しているのだろう。そういえばアウトバーン95ではバックパネルに「ハイブリッドテストビークル」と表示して走行していたBMW 3シリーズにも出会った、アウトバーンは世界中のオートメーカーにとって絶好なテストコースでもあるようだ。
  • 278. BMW Z3ミュンヘンから北西約210kmに位置するシュツットガードに向けてアウトバーンを走行中の思い出。アウトバーン(AUTOBAHN)は正確には速度無制限道路を含む高速道路で常に一定の制限速度ではなく交通/道路状況に合わせて電光板で制限速度を表示する合理的なシステムを持つ。速度無制限地区はおまわりさんのことなど気にせず好きなだけ飛ばせるのだからまさに「快感高速道路」! 160kmで流していた私のバックミラーに写ったと思った数秒後おそろしいスピードであっという間に弾丸のように追い越してすっ飛んで行ってしまった、ブラックのZ3だ。Z3は2シーターライトウエイトオープンカーとして1996年に登場、後にクーペが加わった。直4シリンダー1.9リッター140馬力、直6シリンダー2.8リッター193馬力が主となるがMロードスター/Mクーペには直6シリンダー3.2リッター325馬力のパワフルなエンジンが用意される。典型的なロングノーズショートデッキのクラシカルで丸みを帯びたグラマラスなボディーは007ジェームス・ボンド「ゴールデンアイ」のボンドカーとしてスクリーンにも現れた。2004年にZ4にバトンタッチした、アウトバーンではZ4にも何度か追い越されたがぶっ飛んで行く姿はZ3の方がずっとカッコ良い。
  • 279. ダッジ ダコタミュンヘン滞在中は空手の稽古が出きず運動不足になりがちなので毎朝1時間半ほど歩き回るのを日程にしていたがある日路地に駐車しているソリッドレッドのダコタに出くわした、ドイツでは稀にしか見られないアメリカン中型ピックアップトラック、希少性も手伝ってかすこぶる新鮮に見える、2005年に登場した3代目(初代は1987年)のダコタで両サイドフェンダーとリアゲートにアメリカを主張するV8のエンブレムが誇らしげに輝く。ヨーロッパ市場では未だにピックアップトラック=ジャパニーズ小型ピックアップトラックということになっている、ドイツオートメーカーでピックアップトラックをラインアップに持つのはVWだけ、VW アマロック(AMAROKは北極圏に住むエスキモー民族の言葉で「狼」を意味する)と呼ばれアルゼンチンで生産されヨーロッパへも輸入されている小型ピックアップトラック。
  • 280. ベントレー コンチネンタル フライングスパーマリエンプラザにあるネオゴシック様式の建物(新市庁舎)の中央塔の仕掛け時計は定時になるとグロッケンシュピールの音色に合わせてからくり人形が回りだす。観光客で賑わうマリエンプラザの裏通りはファイブスターホテルが建ち並ぶマキシミリアン通り、有名なギャラリーやデザインショップ、ブランドショップが顔を並べ「ミュンヘンの5番街」とも呼ばれる。バイエルン州立歌劇場もあるゴージャスなマキシミリアン通りにはフェラーリ、ランボルギーニ、ポルシェ、アストンマーチン・・・などのスパースポーツカーと共にロールスロイス、ベントレー、ジャギュア、ブガッティ・・・などのウルトララグジャリーカーが駐車している。ソリッドブラックのコンチネンタル フライングスパーもその内の1台でショ-ファーがショッピングに出かけたご主人を待っているようだった。コンチネンタルシリーズは2ドアがGT/GTC、4ドアがフライングスパーと呼ばれるスーパーラグジャリースポーツセダン、エンジンは4リッター V8と6リッター W12が用意される。威厳に満ちた重厚なエレガンスを感じさせる。
  • 281. BMW ヴェルトWELTはワールド、BMWヴェルトは「BMWの世界」ということになる。オリンピアパークに接するBMWの本社舘(通称フォーシリンダー)の向かい側に2007年10月オープンした。BMWの現行ラインアップのディスプレーと最新のテクノロジーの紹介、将来展望などをアピールする巨大なショールームであると共にオーナーへのクルマの引渡しも兼ねた新車購入のためのカスタマーセンターとしても機能する。毎日何回かブルーとホワイトの2トーンカラーの1959年式イセッタが訪れた人を同乗させてヴェルト舘内をデモ走行する、モーターサイクルR25用の4サイクル単気筒250ccエンジンを搭載して大ヒットしたBMW初の4輪乗用車で、ダダダダ・・・とかなりの排気音と匂いの強い青白い排気煙を撒き散らしながら走るイセッタは小さくてとてもかわいい。ヴェルトでは昨年2011年モデルチェンジした3代目の6シリーズのアピールに追われていた、ニュー6シリーズは2ドアのカブリオとクーペそして4ドアのグランクーペの3本立て、マットグレーの4ドアグランクーぺとレッドのクーペがディスプレーされていた。後から登場したM6(カブリオ/クーペ)は4.4リッターV8,560馬力のエンジンを積むモンスターマシーン。
  • 282. 281. ジャギュア XJラファ君がインターナショナルスクール入学のための健康診断(入学時の強制義務)を受けることになりミュンヘンセントラルステーションの近くにある小児クリニックについていった。ポルトガル語しか話さなかったラファ君は2年間のアルゼンチン生活でやっとスペイン語が話せるようになりかけたのに今度はドイツ語を話さなければばならない、子供だからあっという間に話せるようになると思うのだけれど・・・クリニックへはドイツ語通訳の女性に付き添ってもらった。ラファ君が話すポルトガル語をえりかが英語で話し通訳の女性がドイツ語で医師に伝える・・・医師の話がラファ君に伝わるのはその逆という手間のかかるややこしいコミニュケーション、見ていてイライラした。そのクリニックの窓の下にパークしていたのがブリティッシュグリーンのXJ8,2003年に登場したオールアルミボディーの3代目XJ(初代は1968年),トラディショナルでゆったりとしたブリティッシュの気質と気品を漂わせる私の好きなモデル。XJ8は4.2リッターV8エンジンを積むロングホイールベースのラグジャリーサルーン。
  • 283. メルセデスベンツ ウニモグニンフェンブルグ宮殿(Schloss Nymphenburg)を訪れた。バロック建築の代表として知られる宮殿はバイエルン選帝候や国王の夏の離宮として建てられたそうだ。宮殿内には「ニンフェンブルグ焼き」として知られるハンドメードのクラフト陶磁器ミュージアムと工房がある。広大な敷地に広々と広がる庭園には水を満々とたたえた大きな池や水郷があり白鳥、黒鳥を始め多くの鳥や大きな黒褐色の野鯉達が気持ち良さそうに泳いでいる。この広大な宮殿、庭園、道路・・・などのメインテナンスにオレンジのウニモグが活躍している、ウニモグは「Universal Motor Gerat」の頭文字で「多目的動力装置」の意味を持つ多目的作業車だがオリジンは第2次世界大戦後の1947年に25馬力のダイムラーベンツディーゼルを搭載して生まれた農作業車。現在では広範囲な一般的作業車としてだけではなく汎用性の高い軍用車などとしても使われている。
  • 284. マクラーレン MP4‐12ミュンヘンの市街地から少し離れた新しいアパート群の一角にマクラ―レンの小さなディーラーがあった、MP4-12Cと‘80年代のF-1マシーン2台のみがディスプレーされている。たった1人のセールスマンの話(幸い英語が通じた)によると、現在ミュンヘン市内に大きくて立派なディーラを建設中でここはそれまでの仮のスペースなのだそうだ。MP4は1981年以来のマクラーレンF‐1マシーンの車名で軽量で強靭なカーボンファイバー製モノコックボディーなどF-1の究極的な技術とノウハウを満載している2シーター2ドア ミッドシップスーパースポーツクーペ、グレーのMP4-12にはマクラーレン自製の「M838T」と呼ばれるV8,3.8リッター 600馬力のエンジンが搭載される。話をしているうちにすっかり気が合ったらしく「普段はこんな事しないんだよ・・・」とか言いながらエンジンをかけて威勢の良いスポーツサウンドを聞かせてくれた。もう1台はレッドとホワイトのマルボロカラーのF-1マシーン、スウェーデンのF-1ドライバー ステファン・ヨハンセンが1987年シーズンを戦ったマシーンでカーナンバー2のMP4/3、マクラーレンのポリシーで各ディーラーに1台ずつ本物のF-1マシーンが展示されているとのこと。
  • 285. うちの猫ちゃん達うちには今、ニキ/チーコ/ルル―という名の3匹のオス猫ちゃん(「玉抜き」をしてあるので正確にはオスではないかもしれないが・・・)がいる、ニキはホワイトの体にブラックの模様のある大型猫で目が開くか開かないうちに道端に捨てられていたのをヨメさんが拾ってきた「捨て猫」、ボス格で他の2匹を時々いじめる悪い猫! チーコは近所の家の飼い猫だったのが家出してうちにいついてしまった「家出猫」、シャム猫の雑種でベージュとブラウンの体に足先だけがホワイト、家出してきた時は鼻と喉の病気持ちだったので2週間ほど抗生物質を飲ませて全快させた、おとなしい猫で1日23時間ぐらい寝ている。ルルーは次女夫婦のアパートに飼われていたのだがソファーで爪を研ぐ、ドアーは引っかいて傷だらけにする、植木鉢の土を掘り返して床にばら撒く・・・「手に負えないからもらってほしい」と言われてうちに来た「厄介猫」、イエローブラウンのトラ猫で予想どうりソファーは引っかきキズだらけで大分ダメージを受けている。