起業家江副浩正

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リクルート創業者・江副浩正。
1936年6月12日生、2013年2月8日逝去。

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起業家江副浩正

  1. 1. 【ケース 】江副浩正:求人情報「リクルート」の創業者 江副 浩正(えぞえ・ひろまさ) 1936年(昭和11年)生まれ。日本の実業家。現在は江副育英会事務局長。 株式会社リクルートの創業者であり、若手起業家の草分けでもある。1988年(昭和63年)に発生した「リクルート事件」の贈賄側人物として知られる。(1)生い立ち 1936年(昭和11年)、高校教師の江副良之、マス子の長男として母親の郷里の愛媛県越智郡波方村(現在の今治市)に生まれた。祖父の代から教育者の一家で、父親の艮之も中学・高校の教師。幼い時分に母親と離別した浩正は小学校4年まで父の故郷の佐賀で過ごした。成績は優秀だが、体操と音楽が苦手で、その大きな頭から当時のあだ名は「仮分数」 。江副一家はその後、大阪市天王寺区に移り、戦災によって大阪府豊中市へ転居した。 江副は、兵庫県芦屋市の甲南中学に進学。当時、甲南に通う生徒は資産家や中流以上の家庭の子弟が大半で、数学教師の息子にすぎない江副のような生徒は少数派であった。江副は勉強でもスポーツでも飛び抜けたところはなく、同級生の間に印象らしい印象を残していない。地味で妙に理屈っぽいところがあり、あだ名は「じいちゃん」だった。(2)サークル活動で求人ビジネス 甲南高校を卒業し、1955年に東京大学に進学。東京大学教育学部教育心理学科卒業。 江副は、大学で「中学時代、学内新聞を作ったから」という理由で東大新聞会に入会する。東大新聞会はサークル活動の一つで「東京大学新聞」を発行していたが、入会して1カ月もしないうちに印刷会社に100万円の未払金をつくってしまい、会は活動停止になる。このため、会のOBらが中心となって財団法人東京大学新聞社が設立され、その経営基盤を支える広告収入の確保を実現したのが、自ら営業をかって出た江副だった。これまでように大学の周辺の喫茶店や書店、先輩のいる会社がお付き合い程度で出してくれる広告収入ではたかが知れている。浩正が目をつけたのは大企業の会社説明会だった。 たまたま学内の掲示板に丸紅の会社説明会の案内が貼ってあるのを見かけ、直接、広告を頼みに行ったが、すぐに丸紅から広告発注を受けて反響を呼ぶ。以後、日綿実業、伊藤忠商事など大企業の広告出稿が相次ぎ、 「東大ブランド」を利用したこの学生商法は大成功を収め、東京大学新聞社の100万円の赤字は300万円の黒字になった。当時は1960年安保が最高潮を迎えようという時代で、多くの学生は安保反対運動に参加したが、江副は「デモより広告取りが面白い」と企業巡りに精を出すというノンポリ学生であった。(3)リクルートを創業 広告担当として企業向けの営業を覚えた江副は、1960年の東大卒業と同時に、求人広告専門の大学新聞広告社(現在のリクルート)を設立した。当時の江副は若干23歳、本社は森ビル屋上の2坪のペントハウスであった。江副は東大在学中につちかったツテで企業から求人広告を取り、早稲田、京大、一橋などの各大学新聞に斡旋しょうとした。 事業は急成長した。1960年からの岩戸景気のおかげで新聞に初めて「求人難」の文字が躍り、青田買いが一般的になった企業からは大学新聞広告社に広告出稿の依頼が殺到した。すぐに大学新聞にも掲載しきれなくなり、せっかく取ってきた広告の掲載場所がないという賛沢な悩みが生じる。江副は、自分たちの責任で編集・発行できる媒体を持ちたいと考えた。そこで登場したのが、一冊丸ごと会社案内・求人広告だけを載せた『企業への招待』という本、後の発展の原動力ともなったリクルートブックの原型である。 こうした大卒求人広告雑誌のビジネスは、当時はすき間産業であったが、江副は大学時代の経験からニーズと成長性を感じて、日本で初めて本格的な商売にしたのである。1963年、社名を大学新聞広 ~1~
  2. 2. 告社から日本リクルートメントセンターに変更。1963年、社名を日本リクルートセンターに変更。後の1984年には再び社名を株式会社リクルートに変更している。 東京オリンピック開催前の景気により売上が急拡大したが、その後の不況により日本リクルートセンターはピンチに陥るが、それを乗り切った1966年、老舗出版社のダイヤモンド社が『就職ガイド』という対抗商品をぶつけてきた。江副は社員に激を飛ばした。「この事業の創始者である我々にとって、2位になることはレーゾンデートルを失うことを意味する。」 がっぷり四つに組んだまま5年が過ぎ、リクルートは生き残った。一説によると、江副は金一封付きの「ダイヤモンド・ノックアウト賞」まで設けて社員を鼓舞したという。(4)若手起業家の旗手 その後は就職情報誌を女性向け、技術者向け、アルバイトと細分化し、あわせて住宅関連の情報誌も発行した。事業は雑誌媒体にとどまらず、会社案内、入学案内、果ては入社模擬試験、各憧セミナー、海外ツアーから人材斡旋、スキー場開発、農場経営にまで及んだ。一見すると無節操な事業展開の裏には、江副の哲学、ライフサイクル論があった。人間の一生を考えたとき、幾つかの節目がある。進学、就職、転職、結婚、住宅取得。これらに伴う需要を巧みに吸い上げてビジネスに結びつけた。 リクルートの驚異的な成長と軌を一にして、若手起業家・江副の一風変わった個性も注目を集めていく。創業者によくあるカリスマ性やギラギラした押しの強さとは無縁で、 語り口はあくまで穏やか。身長165センチ、痩せ型、爽やかな笑顔を絶やさず、髪を短めに刈り上げた童顔の坊ちゃんタイプ。 「東大が生んだ戦後最大の起業家」と賞賛された。取引先で目の前に江副がいるのに、 「社長さんはどちらに?」と尋ねられた話が流布した。社員には自分を「江副さん」と呼ばせ、ソフトなイメージが定着した。一方で、若いアルバイト社員を使い、社員もノルマ達成者には特別ボーナスを支給し、3年勤続すると1カ月の有給休暇を与えるなど、社内を鼓舞する施策を揃えた。 江別が経営者としての裏側をのぞかせた話がある。1974年、「環境開発」(後のリクルート・コスモス社)を設立して不動産部門に進出したとき、取引先の銀行トップは強く反対した。 「君は抜群に優秀だが、不動産だけはやめておきなさい。 手を出せば必ず失敗する。 忠告を当時38才の江副は無視した。 」一度思い込んだら、誰の言葉も受け入れず、異なる考えの持ち主は徹底して排除する。その傾向はリクルートが成長するにつれ、頭著になったという。(5)リクルート事件 1989年2月14日朝日新聞の朝刊一面 リクルート事件は、1988年6月の『朝日新聞』横浜支局のスクープ記事から発覚した戦後最大級の構造汚職事件である。贈賄側のリクルート社江副社長や、収賄側の政治家や官僚らが次々に逮捕され、当時の政界・官界を揺るがす一大スキャンダルとなった。この事件では、リクルートの関連会社で未上場の不動産会社リクルート・コスモス社の未公開株が賄賂として使われていた。政・財・官界など特権階級の人々の錬金術が白日の下にさらされた。 事件の発端は、川崎市テクノピア地区へのリクルートの進出にからみ、権限を持っていた川崎市の助役に対して、リクルート社の子会社である「リクルート・コスモス社の未公開株式を融資の仲介付きで譲渡した」という疑惑のスクープ記事であった。まもなくマスメディアの調査追及によって、元閣僚を含む76名にリクルート・コスモス社の未公開株式が譲渡されていたことが発覚し、さらにはコスモス社の社長室長から、この事件追及をすすめていた社会党(当時)楢崎弥之助議員に500万円の贈賄工作があったと楢崎議員自らが告発する事態に発展し、この模様はテレビで放映されるなど、世論は沸騰した。 1988年10月、東京地検特捜部は、リクルート社などを強制捜査、同社社長室長を贈賄容疑で逮捕。 ~2~
  3. 3. 1988年7月には森田康日本経済新聞社社長のリクルート・コスモス株購入が発覚し社長辞任。その直後に江副はリクルート社会長を辞任した。翌1989年2月13日には江副前会長ら2名が贈賄容疑で逮捕された。同年3月にはNTT会長真藤恒、元労働次官加藤孝、元労働省課長、前文部次官高石邦男らが各収賄容疑で逮捕、さらに同年5月には第二次中曽根内閣の官房長宮であった藤波孝生議員と池田克也公明党議員らを受託取賄容疑で在宅のまま取り調ベが行われた。 疑惑が持たれた高級官僚や閣僚たちは、 「妻が株をもらった。私は知らない。 、 」 「家族がもらった、秘書がもらった。 」と釈明、当時「妻が、妻が…。秘書が、秘書が…」という言葉が小学生の間にまで流行した。こうして事件は政界や経済界の大物の未公開株収受による収賄容疑で起訴、そして当時の宮沢大蔵大臣辞任、竹下内閣崩壊というスケールに拡大した。しかし、密室の財テク的収賄疑惑がもたれた政府・自民党の幹部に強い疑惑が集中し、国会証人喚問などでも追及されたが、多くの「灰色高官」たちの立件は行われないままに事件は幕引きとなり、結局、戦後の他の大疑獄同様、核心の解明なしで終結、国民の間には「政治不信」だけが残こることとなった。 このリクルート事件の原因は、江副浩正リクルート社会長が、自社の政治的財界的地位を高めよういう目的で、1984年12月から1985年4月にかけて、有力政治家・官僚・通信業界有力者の3方面をターゲットに未公開株を相次いで譲渡したことにあり、譲渡者は個人40名、63社にのぼった。1985年10月に株式が譲渡されたリクルート・コスモス株が店頭公開し、上記の譲渡者の売却益は合計で数億円を上回ったといわれる。この事件解明の過程で、当時は50歳前後で若手の経営者であった江副が、閣僚級の大物政治家や高級官僚、大企業トップの多くと交流があったことが明らかになり、こうした昔の悪しき政商を思い起こさせる錬金術商法はリクルートのブランドイメージを大きく失墜させた。 2003年3月、贈賄側の責任者である江副は東京地裁で懲役3年執行猶予5年の有罪判決を受け、被告・検察ともに控訴せず判決は確定した。また、事件発覚後の1988年8月には、江副の自宅玄関に銃弾が打ち込まれ、後の犯行声明によって当時一連の右翼テロ事件(赤報隊事件)のひとつと判明している。(6)事件後 事件のリクルートは、信用失墜と共にバブル経済の崩壊に伴い、マンション・不動産事業の子会社リクルート・コスモスや、金融子会社のファーストファイナンスなどの不良資産問題が顕在化し、グループ全体が窮地に追い込まれていく。1992年、江副は保有するリクルート社の株式を中内功に譲渡し、リクルートは事実上ダイエーグループの傘下に入り、これによってそれまでリクルートのシンボルマークだった「かもめ」はリクルート本体から消えた。しかしその後のダイエーの不振により、2000年にリクルートは社員等や提携先が中内氏から株式を買い戻しダイエーグループから離脱している。 江副は、2003年の有罪判決確定後は執行猶予の身となり、世間には登場せずに黙して語らないまま、自身の江副育英会の事務局長や回想本を執筆するなど雌伏の日々を過ごしていたが、 2009年10月に自著「リクルート事件・江副浩正の真実」 (中央公論新社)を刊行し、自らがリクルート事件について明らかにしている。 【引用文献】 ・江副浩正「リクルート事件・江副浩正の真実」 (中央公論新社) ・江副浩正「かもめが翔んだ日」(朝日新聞社) ~3~

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