「知」が拡散する時代アーカイブ・キュレーション
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「知」が拡散する時代のアーカイブ・キュレーション 2011年 2月16日(水)18時~20時 国会図書館 http://www.ustream.tv/channel/sekken-bros パネリスト ...

「知」が拡散する時代のアーカイブ・キュレーション 2011年 2月16日(水)18時~20時 国会図書館 http://www.ustream.tv/channel/sekken-bros パネリスト 古賀稔章(編集者/東京大学大学院総合文化研究科)、上崎千(慶應義塾大学アートセンター)、前田邦宏(関心空間) モデレータ 氏原茂将(Community Design Council)

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「知」が拡散する時代アーカイブ・キュレーション 「知」が拡散する時代アーカイブ・キュレーション Document Transcript

  • 福林:2010 年はツイッターなどのソーシャルメディアが普及する一方で、iPad のような読書用デバイスが登場したことで電子書籍のリアリティが増した一年であり、知の拡散がうながされたと言えます。一方で、国立国会図書館では資料の大規模なデジタル化やインターネット資料の制度的収集が本格化するなどしましたが、これらは図書館のアーカイブ的機能の周縁への拡大ととれます。これらの動きをライブラリアンとしてみると、これまでの図書館は紙の資料に依拠した事業形態だったわけですが、その前提が崩れようとしているともとれるわけです。ソーシャルストリーム化する情報のなかで、何をどのように蓄積し、どのような文脈から提示していくのか、すなわちアーカイブないしはキュレーションがあらためて問われている時代だと思います。そこで今回は「知が拡散する時代のアーカイブ・キュレーション」というタイトルで、国立国会図書館という国内最大規模のコンテンツ群とアーカイブとキュレーションの関係について考えてみたい。その際、必要となる観点は、これからの図書館は知へのアクセスポイントとなるだけではなく、知を拡散させるひとつのメディアとなるべきで、そのためにはユーザも単なる利用者としてではなくコンテンツを一緒につくっていくパートナーとしてみるべきということでしょう。それらを念頭に置きながら、これからの議論を聞いていただければと思います。氏原:こんばんは。モデレータの氏原茂将です。「メディアセブン」という、図書館に併設されたメディアセンター/地域教育施設でディレクターをしています。今日は、慶応大学アートセンターにてアーカイブの実践と研究を行う上崎千さん、書物や出版にまつわる実験的なメディアを展開する編集者・古賀稔章さん、そしてウェブサイト関心空間を構想し、現在は集合知の構築と活用を研究する前田邦宏さんをゲストにお迎えしています。ぼくの役割は、図書館の最近接領域で実践を行っている立場上、ライブラリアンのもっとも近しい他者として、三人のお話を図書館につないでいきたいと思います。それでは、さっそく上崎さんからお話を伺っていきましょう。お願いします。上崎:わたしは、慶應義塾大学のアート・センターというところで、主に戦後日本の前衛芸術に関するアーカイブの設計・構築に携わりつつ、一方で「アーカイブ」そのものを知的関心の対象としてきました。そこで今日は、戦後アメリカを代表する芸術家であるロバート・スミッソンの言葉をエピグラフとして、問題提起に入っていきたいと思います。スミッソンは「思考の堆積作用(原題:A Sedimentation of the Mind: Earth Project)」という 1968 年の論考で、次のように言っています。
  • ----しかし、芸術が芸術である以上、それは範囲=境界を持つはずである。 海洋的な」 「 この場所(site)を、どうやって収容するのか。私は非場所(Non-site)を造成した。それは物理的に、場所の崩壊を収容する。この容器は、ある意味で断片そのものであり、三次元の地図と呼びうるものである。「ゲシュタルト」や「反形式」などに訴えずとも、それは実際、一層甚だしい断片化の断片(a fragment of a greater fragmentation)として存在しているのである。非場所は、自らの収容の払底を収容しつつ(containing the lack of its own containment)、全体からは離脱している三次元の<遠近法>である。その名残に神秘的なものなどなく、終わりや始まりの痕跡もない。----ここに、「断片化の断片」を収容するコンテナーというモティーフが出てきます。よく「コンテンツ・デザイン」なんていう言葉を耳にしますが、実際にアーカイブ作業の現場にいると、コンテンツよりもむしろコンテナーのほうを意識します。図書館であれば図書ですが、アーカイブでは、そのままではどうにもならない、いわば分別されていないゴミのようなものが扱われるわけで、そのような雑多ものを収容するコンテナーをどうやって設計するのかが問題になるんです。そのようなコンテナー、容器をいかにデザインするのか、それこそ「知が拡散する時代」にあって、どのような容器を用意できるのかということが、わたしからの最初の問題提起です。昨年の 10 月に、東京国立近代美術館で、美術館や美大の図書館の関係者らとのカンファレンスがあり、「アーカイブ」について考えるときに用いられうるモデルについて議論しました。そのときわたしは、二つのイメージを提示しました。ひとつは、北海道の野付半島などにみられる「砂嘴」という地形です。海水によって運ばれた砂が対流などの作用である場所に堆積してできる地形なのですが、この「砂嘴」という地形の構成要素、つまり砂が、この土地に固有のものではなく、いろいろなところから運ばれてきた断片の寄せ集めであり、「断片化の断片」であるというところが面白いんです。もうひとつのイメージは、ロバート・スミッソンの作品〈TheSpiral Jetty〉です。昨年のカンファレンスでは、この二つをモンタージュすることで、二重のアーカイブ・モデルについて説明しました。今日は、より具体的なアーカイブ・モデルを提示したいと思います。そこで、『アルバム・銀座八丁』という印刷物を、「アーカイブ的な思考」のモデル化に成功しているひとつの事例としてご紹介します。木村荘八の『アルバム・銀座八丁』(1954 年)は、長さが 5 メートル弱の蛇腹折りの本で、銀座の中央通りに面した新橋から京橋までの街並みを撮影し、紙面上でその中央通りを再構成したものです。さらに、建物ごとに 4 つずつテナント名が記されているのですが、
  • これらはそれぞれ 1953 年 12 月(戦災後)、1942 年 7 月(戦災前)、1930 年 12 月(震災後)、1921 年 8 月(震災前)という 4 つの時代のテナントを示しているんです。4層の文字列というフォーマットを設けて、そのフォーマットを反復するだけで、銀座通りに沿いのすべての建物の、テナントの変遷が分かるようになっています。建物がもっているライフスパンよりも短い、出版物の宣伝や映画の看板なども視覚化されます。いずれにしても、この印刷物の紙面=路面は、然るべき編集作業によって、抽象的に舗装しなおされたものとして実現されているんです。『銀座八丁』は、一望された景観ではなく、つぎはぎだらけのイメージであり、徹底的に構成的であり、むしろ多分にフィクショナルであるからこそ、記録としての強度をもっているのです。この印刷物は、「アーカイブ」というものがもっているフィクショナルな質を示す好例といえます。ところで、いま「編集」という言葉を使いましたが、最後に、「編集」とアーカイブの関係に関するジョルジュ・ディディ=ユベルマンの言説をふり返って終わりとしましょう。彼は『イメージ、それでもなお』(2002 年)の中で、アルレット・ファルジュを引用しながら次のように述べています。----資料の「蓄え」の中に一度でも足を踏み入れさえすれば、アルシーヴが記憶に、クロード・ランズマンの見て取ったような硬直した意味、固定したイメージを与えるのではないという具体的な経験を得るには十分である。アルシーヴは常に—弛まなく—ひとつの「構築中の歴史であり、その帰結を全体的に掌握することは決してできない」。どうしてそうなのだろうか。なぜなら発見のひとつひとつは、念頭にあった歴史の中の裂傷として出現するからであり、当座は形容不能なその単独性を、研究者はすでに自分が知る全てからなる織目に縫い合わせようと試み、可能ならば当該の出来事についての再考された歴史を生み出そうとする。 「アルシーヴは既成のイメージを壊す」とアルレット・ファルジュは正当にも記している[…]。アルシーヴは一方で、その「断片」的な側面、もしくは「そのような形で語られることを少しも望まなかった生たちの荒々しい痕跡」によって、歴史的理解を細断する。他方でアルシーヴは、「突如として未知の世界へとつながり」、再構成すべき解釈の「生きた素描」をわれわれにもたらすような、絶対に予測できない「現実効果」を放出する。----ディディ=ユベルマンはつづけて「アルシーヴが絶え間ない再編集により、あるいは他のアルシーヴとのモンタージュにより常に練り上げられる必要がある」と言っています。いづれにしても彼の言説は、アーカイブがどのようなかたちでフィクション、あるいはドキュメンタリーとかかわるのかという問いの中で展開されています。 View slide
  • さて、ひとまず私からの話はここで一度終わりにしたいと思います。氏原:ありがとうございます。さっそく図書館につながるお話でしたね。いかに容器、コンテナをつくるのかということは、図書館にももとめられているように思います。リテラシーが読み書き能力を意味しているように、これまでは知ることは本が独占的にもっていました。だから、本をあつめる図書館というアーカイブのかたちが知の表象、世界そのものというイメージをまとっていたのだと思います。しかしながら、本というものが知るメディアとして相対化されるなかにあって、知ることと伝えることのメディアが多様化しており、それをアーカイブするときには容器そのものからつくらないといけないと思いました。それではつづいて古賀さん、お願いします。古賀:僕はデザイン誌「アイデア」の編集者として、主に 20 世紀以降の欧米圏のグラフィックデザインやタイポグラフィに関する特集記事の企画に携わってきました。その後、大学院で 500 年ほど前に起こった「印刷革命」の時代について研究をしています。当時のヨーロッパの社会状況を振り返ってみると、電子書籍“革命”と喧伝されるものが登場している現代を生きる私たちにとって示唆的なヒントがあることに気づきます。例えば、グーテンベルクが活版印刷という革新的技術の発明によって社会が変わった、ということは一般に広く知られています。しかし実際には、写本から印刷本への変化は比較的長いタイムスパンで起こったものでした。また、活版印刷技術の発明自体も、それまでにあった金属の加工・鋳造、レンズの発明、ブドウ圧搾機など、背景にある複数の技術が組み合わさった結果だとも言われています。ということは、今日の電子書籍革命と呼ばれる事象も、長いタイムスパンで進行中の変化の一部と言えるのではないでしょうか。この革命について、そもそもの発端の時点まで省みれば、それは 70 年以上前にアメリカではじまった情報の生産と流通にまつわる二つの革新的技術——ひとつは情報ネットワークの技術であり、もうひとつは複写技術——に端を発するものと捉えられると思っています。 まず、情報ネットワークの技術を考えるうえでは、1945 年にヴァネバー・ブッシュが構想した情報検索システム「メメックス」にまで立ち戻ることができるでしょう。ここで留意すべきは、大量の情報を圧縮する記憶装置を外部に拡張していくことと、その情報を相互参照する技術の必要性が、すでにブッシュによって説かれていたことです。また、アーパネットの元となった概念である「銀河間コンピュータネットワーク」を提唱した J.C.R.リックライダーは、1960年代に書いた『みらいの図書館』という本を書いています。同書では知識や記憶の集合体にアクセスするためのネットワークシステムが構想されていますが、とりわけ、そのシステムにアクセスするための司書のような専門家の必要性が説かれ、人間と機械の共生という主題が提唱 View slide
  • されています。 次に複写技術についてですが、現在のゼロックスの複写機のもとになるエレクトロフォトグラフィーの発明は、チェスター・カールソンによって 1940 年ごろに特許が取得されました。私たちが日常的に接しているコンビニのコピー機や、キンコーズのようなサービスを生み出すに至った複写技術の革新も、先程のメメックスとちょうど同じ時期にはじまったものなのです。だとすると、印刷された本から電子書籍への移行についても、70 年ぐらい前から進行してきた革命の一端であり、近年の電子書籍デバイスの発売なども、いわば過渡期の現象のひとつにすぎないものとして俯瞰的に見ることができるのではないでしょうか。 一方の情報ネットワーク技術が、膨大な情報の断片をいかに組織化・体系化された知識にするかという問題であるとすると、他方の複写技術は、膨大な文書を容易に複製し、いかに管理・保管するかという問題を私たちに投げかけています。この両者の技術に加えて、さらに検索、スキャニング、画像処理、人工知能、セキュリティといった様々な技術と複合されていく技術革新のプロセスが、作者や書籍販売業者、印刷・製本業者などの各産業も関連する複雑な社会状況のなかで、ゆっくりと進行しているわけです。 そのなかで重要となるのは、それら複数の技術をどのように複合して組み合わせるかという視点だと思います。どのように技術を複合すれば、情報の生産・流通・消費の新しいサイクルを生み出せるのか、ということを考えなければなりません。しかし、電子書籍において新しいサイクルを実現するには、解決すべきたくさんのハードルがあります。たとえば電子出版物流通センターを実現するには、著作権者や出版社からのデータの提供、データの規格の統一、端末の普及、利用範囲を制限する技術、少額決済の普及などさまざまな課題があるわけですが、実際にこれらの課題をひとつひとつ解決しようとするとかなりの時間がかかるでしょう。 であるならば、いま実現可能なことで、新しいアーカイブの利用の可能性を拡大できるような情報のサイクルのモデルを構想することはできないでしょうか。その課題に対してヒントを与えてくれるような現代の欧米のデザイナーやアーティスト、編集者たちが実践している活動のモデルを、いくつか参考事例として紹介したいと思います。 たとえば、ニューヨークで2人のデザイナーが立ち上げたデクスター・シニスターという出版工房兼書店では、大量生産される印刷物ではなく、必要な人に必要な量の情報が届けられる仕組みを考えています。彼らがユニークなのは、トヨタ自動車が提唱したジャスト・イン・タイムの生産方式に着想を得て、いわゆるオンデマンド的な印刷物の提供と、それを流通させるための図書館のような場所といった生産と流通のサイクルそのものを考えるための実践的なモデルを提唱したことです。安価で手近な技術的環境さえあれば、それを新たな発想で組み合わせることで新しい情報伝達のサイクルを生み出せるという、ひとつの回答例を示してくれます。 また、オランダの美術館が発行する「F.R.ディビッド」という雑誌は、毎号、編者たち個人の関心にもとづいて編まれたアンソロジーや引用集のような体裁を採用しています。この「引用」や「転載」された種々雑多な文章を同時併置する誌面は、過去の膨大なアーカイブに死蔵されている蔵書にアクセスするための見事な編集的な切り口を示した好例といえるでしょう。
  • 詩人のケネス・ゴールドスミスが創設した UbuWeb というウェブサイトは、膨大な現代美術関連の文献を収集して転載しているオンライン上のアーカイブです。このサイトには、キュレーターや批評家たちがここで蓄積された文章から数点選んで提示するというセクションが設けられており、キュレーションされた視点を他人と共有することが、アーカイブにアクセスするための窓口として機能することが提示されています。 このような事例を踏まえて、それを図書館のサービスと照らし合わせてみると、例えば、デクスター・シニスターのようなオンデマンド的な流通のサイクルは、国立国会図書館が提供している、個人がオンラインで複写してほしい論文を一部単位で申し込んで郵送してもらえる既存のコピーサービスに似ているようにも思えてきます。また、残り二つの事例からは、図書館のアーカーブに蓄積された膨大な文献をもとに、個人が編集的な視点からアンソロジーを編んで公開する、ということができそうだな、ということも容易に想像できるでしょう。さらに、それを私的複製の範囲で複写することも個人単位ならば問題がないはずです。図書館では書籍であれば半分まで、雑誌なら記事単位で複写できますから、関心があるテーマについて編んだアンソロジーの複写を自分の手元に一部に置いておくことも可能です。 そうすると、図書館の既存サービスを利用した、次のような印刷物の流通モデルが見えてきます。ある編集者やキュレーター、ひいては利用者自身があるテーマについてアーカイブのなかから編集的に選択した文献リストにもとづいて、万人が一部単位でコピーを複写サービス経由で郵送・決済まで含めて簡単に入手できるシステムが、すでに私たちの目の前に存在している、と言えるのです。さらに言えば、たとえばレファ協で「複写の歴史に関心がある」という質問が寄せられたことに対して司書や専門家などから提示される文献リストが公開されているとします。その同じテーマに関心を持つ別の人でも、気軽に選択された文献のコピーを入手できるように、シームレスにアクティビティがつながっていくようなオンライン上のプラットフォームが構築できたならば、それは編集的な視点から拡散していく知の世界であるといえるでしょう。こうした図書館の「複写」というサービスを、現在すでに実現可能な出版流通のモデルとして捉えなおすことの可能性を問題提起して、僕の発表を終えたいと思います。氏原:今度は一転して、アーカイブの利用という観点となりました。いかに個の読み解きをアーカイブに対して許容していくかという話として聞くこともできるし、同時に、書物というひとつの完結したコンテンツを貸し出すのではなく、書物を著作や情報という単位に解体した上で新たな著作をつくるような情報源として使ってみてはという提案ともとれました。アーカイブはつねに再編集されつづけると上崎さんがおっしゃっていたと思いますが、そのプロセスに個人の知をいかに取り込んでいくのかという話にもつながる提案だったと思います。それについては後ほど議論するとして、最後に前田さんのお話をうかがいたいと思います。
  • 前田:2001 年にコミュニティサイト「関心空間」をつくった当時、グーグルが成果を上げていたページランクの基礎となるリンクポピュラリティの考え方に感銘を受け、人間の関心にもとづくページランクをつくろうと考えました。それ以来、その関心空間においてソーシャルグラフや関心グラフ(Interest/Taste Graph)による推薦システムを研究・開発してきました。最初の例は、2005 年にデザイナーの中村勇吾さんとともに、関心空間における関心の分散を可視化しようとしたコンテクストビューワです。そのときの彼のコンセプトは情報には粒度があるというもので、その粒度の広がりを、コンテンツという点から入って本のようにひろがっていくものを空間的に収めるというものでした。しかし、その後、レム・コールハースという建築家が著書『HERVARD DESIGN SCHOOL GUIDE TO SHOPPING』において、デパートやショッピングモールにエスカレーターが組み込まれたことにより、連動購買が生まれたと言う論説を知りました。このとき、インターネット上の EC サイトにないものに気づきました。つまり、視覚の周縁にあるにもかかわらず、意識の焦点が合っていないものへの認知を空間的に埋め込むことです。そのことが、見えている関係性以上に重要であると思い、文脈 — コンテンツではなくコンテクストというべきものですが — にもとづいたシステムをつくり、個々人が言葉にしにくい趣味や嗜好、価値観などを加味して、とあるコンテンツと個人の出会いを助ける仕組み(マッチングシステム)をつくろうと考えるに至りました。このようにいうと人工知能学会に属して協調フィルタリングのような仕組みを研究している人と思われるかもしれません。たしかに、かつてはそのようなアプローチで研究していましたが、そもそもその手法に限界があることに気づき始めました。というのも、一般的な推薦エンジンやマッチングシステムをつくるときには、あるコンテンツのメタデータを多次元化して、それにもとづいて各コンテンツ間を関係づけながら、関係を距離に置き換えます。しかし、メタデータが増えると次元が増えていき、距離、すなわち関係の近さを計るための次元が膨れあがり、結局は人間が理解するために最終的に次元を縮減しなければいけなくなります。そこで、先程出た言葉ですが、私も当初はコンテンツを収めるコンテナを多次元的かつトポロジカルにネットワーク化して、その関係を特定の個人の視界(意識の範囲)に分かりやすい形に収めるインターフェイスが将来的にできると考えていましたのですが、問題はそう簡単ではないのです。たとえば、単純に音楽をデジタルサンプリングしたときに、元の音楽がもつ可聴範囲外の情報が抜け落ちることがありますが、その抜け落ちたところに人間にとって重要な情報がある可能性がありますが、コンピュータにはそういった意味が分からないのです。つまり、統計的手法による次元削減にともなって、人間にとって意味があるが暗黙知としての意味が縮減される可能性があるわけです。あるセミナーで東大情報学環の池上高志さんが「人間が複雑なものを複雑なまま理解するための高次な言語体系を開発しないと科学はこれ以上先にすすめない」とおっしゃっていたのですが、まさにその通りで、次元を縮減することなく、多次元を多次元のままに伝える技術(もし
  • くは人間の能力の拡張)をつくらなければならないと考えるようになっています。そして、話しは飛ぶのですが、そのイメージを具体的な一枚の絵として見たのが、南方熊楠が高野山の土宜法竜管長に宛てた手紙に描いた通称、南方曼荼羅でした。西洋科学と東洋思想の両方を並行して研究した熊楠らしく、西洋のサイエンスを超越した東洋の宇宙を表す大日如来の理(ことわり)を示す線を配置しています。ネットワーク化されている物理世界のさらに上に、別の高次の世界があるということを描いていると読み解けるこの絵に感銘を受けました。コンピューティングがその次元に達するかは分かりませんが、その次元に近づいていきたいという気持ちを持つようになっています。ところで、mixi や facebook は、 「ソーシャルグラフマーケティング」という手法をとっており、各ユーザの友人関係のなかから得た情報をもとに、その個人への広告表示のロジックを決定するというものです。ただ、わたしは 15 年前にソーシャルネットワークをつくった経験から、それには様々な課題があると思っています。つまり、ダイレクトな人間関係は、レコメンデーションネットワークとして使うには大雑把すぎるのです。たとえば、人間的には好きでも趣味があわなかったり、音楽の趣味はすごいけど味音痴だったりすることがある。現実の人間関係は、そういった多面性をうまく結びつけて成立しているのに、それを名刺交換した次の日から全面的に信頼を置くなどということは構造的にはアバウトと言わざるを得ません。世間一般でも、もちろん感度の高い領域の人たちではありますが、関心にもとづいたインタレストグラフ — 関心空間そのものなのですが — という考え方が、一般的にも認知されはじめています。個々人の関心をコンテナとして、粒状にした知識を一覧性の高いかたちで配置しつつ、その関心に応じて周密をつけて視覚化していくというようなアプローチが出てきつつあります。図書館でいうと、ファセット分類というメタデータを用いた考え方がありますが、タグにもとづいて分類すると空間的には不可能ですが、本というリアリティを保ちつつトポロジカルに配置することはウェブ上なら不可能ではないわけです。そこで、わたしが提言したいのは間主観的な情報を集めた集合知のことであり、今後メタデータ、ひいては一次データおよび知識そのものを生み出すのは誰かということです。インターネットは当時、情報のつながりでした。それが Web2.0 の時代にはコネクツ・ピープルとよばれるソーシャルグラフとなり、さらにはコネクツ・ナレッジとよばれるユビキタスなウェブがすすんでおり、実世界との融合も現実味が増しています。この段階に至り、「ソーシャル」という言葉をよく耳にするようになったわけですが、社会貢献的な意味とボトムアップ的な意味とが混在していうように見受けられます。その混在は批判の対象となり、『コトラーのマーケティング3.0』での主張も例外ではないのですが、その本で述べられているように、わたしはその二つのソーシャルが融合していくと確信しています。たとえばボトムアップ型でコンテンツが生成される関心空間も、数年前に経済産業省のプロジェクトでデータベースとして利活用することが検討されており、ユーザによる集合知が公的な機関のなかに取り込まれるようになりつつあります。もしかしたら 10 年後には、国立国会図書館のなかの書店や CD 屋さんのポップのようなものが集合知であつめられ、それがメタデータ
  • として公式的なものとして活用されるということがあるかもしれない。何が言いたいかというと、個々のコンシューマによるプレイフルな振る舞いによってボトムアップ式に形成された集合知が、社会的なミッションのためのなり得るかもしれないということです。これは「社会的ミッションのための共愉・共創」といってもいいかもしれませんが、そのような仕組みは今後の社会的な知のあり方に何らかのかたちで寄与するのではないかと考えています。氏原:さすが、いつもながらぶっ飛んだ話になりましたね(笑)。古賀さんのお話のあとにも触れましたが、図書館という場所や知るという行為は、近代運動の表れだと思います。本というものが知の表象であったことが、図書館を無限に広がる知の空間にしたのだと思うのですが、そこに入るものはすべて標準化しなければいけないという思想、というか強迫観念があったと思う。だからコンテナも分類法も標準化が前提になっていたと思うのですが、前田さんのお話になったコンテナのつくり方は、それを拒否していていますよね。そこにアクセスする人間すら分からない、言葉にならないものによって適宜整理されつづけていくようなものなのかなと聞いていました。ここで三人の話をふり返ると、上崎さんはコンテナという視点を提示してくださり、古賀さんはそこに収められるコンテンツをいかに編みなおしつづけるのかという方法を提示してくださいました。古賀さんのお話では、その方法はエディターないしはキュレーター的な視点をもった人間が介在するわけですが、前田さんは人間の知を模したコンピュータが計算するというお話ともとれると思います。それで…、このようないささか強引な見立てをしたときに、上崎さんにお話をもどしたいのですが、アーカイブをフィクショナルなものであり得ると考えて再構築しつつけていくという観点から、お二人のお話について感想をお聞きできますか?上崎:フィクショナルなアーカイブ — 「ドキュメンタリー」も、ある種フィクショナルなものの一様態であるという話でしたが — そのような自分の話に引きつけるとすれば、本当の、ありのままの真実の姿をどうやって切り取るかという話ではなく、アーカイブの構築に携わっている者が、自らの表現として、いかに自らの関心の束をアーカイブ的な様態として見せるかということが問題なのです。また一方で、コンテンツもコンテナーもどんどん古くなるわけで、レイアウトに関しても、レイアウト自体をつくりなおし続けるわけだから、新たに生まれてくるものはよりリアルなものというよりも、むしろよりフィクショナルな性質を帯びることになると言えます。たとえば『銀座八丁』とグーグル・ストリートビューをくらべた場合、グーグル・
  • ストリートビューが『銀座八丁』よりもリアルでインタラクティブだという話ではなく、どちらもアーカイブ=フィクションのひとつの様態でしかなく、それぞれに強度があるということになります。アーキビストは、抽象的なインタフェースをいくつも提案しつづけるという作業をくり返すしかないのだと思います。氏原:いまや、ある事象の全体像を網羅したリアルとつくること自体は不可能だと思います。というよりも、それが可能な時期なんてなかったのにもかかわらず、網羅できていると信じていた時期があったんじゃないかなと思います。それはおそらく、極論かもしれませんが、書物の完結性とも不可分ではないのではないでしょうか。お話を聞いていると、そういう全体性を表象しようという妄想ではなく、もっと小さな圏域のインタフェースやそのためのリテラシーができていけばいいのではないかと思います。それとからめてもうひとつお伺いしたいのは、その作業の主体はだれになるのでしょう。上崎:誰のためにやっているかということでいえば、アーカイブの構築は、客観的かつ網羅的な資料体によって歴史を再構築するための作業、などというものではありません。アーカイブはある種の公共的な側面をもってはいますが、やはり、それらは設計者の表現なんです。記録なのか表現なのかと言われれば、多分に表現の方によってくるもので、それらはバランスよりもむしろ然るべき「傾き」をもっていて、そのような「思考の傾き」をどのように見せるかということが、アーカイブに携わる者たちの表現なんだと思います。氏原:それは図書館でライブラリアンが蔵書するときには言わないことのように思います。とくに国立国会図書館ではそうではないでしょうかね。偏っていていいとか、ばらつきがあっていいということはなかなか言えないところでしょう。でも、逆に個を取り込もうとしたときは、個々人の傾きが露骨に流入してきてしまうんじゃないかと思いますが…。上崎:バランスの良いかたちで、さまざまな関心を詰め込んでいくことで、はたして客観性に向かえるのか、網羅性に向かえるのかというと、やはりそうでもなくて、然るべき領域とリミットを設定しないことには、網羅性なんていう質は確保できないんです。網羅性への方向を示すことはできるけれど、網羅的な資料体とか、完全な資料体なんてものは、本当はあり得ないということです。ですから、むしろ簡単に「客観性がある」とか「網羅している」と言ってしまうことの方が問題で、ある資料体の質がどういうふうに傾いているか——偏りではなく傾きです—
  • —ということを説明可能にしておくことのほうが、弁証法的なレベルでの客観性なんじゃないかと思います。氏原:古賀さんにお話を聞きたいのですが、傾きのあるアーカイブから傾きをもつ人間が読み解いていくというある種の知の連鎖が発生していくということになったとき、その連鎖をアーカイブに再帰的に取り込んでいくというような途はあるのでしょうか?古賀:回答になっているかは分からないですが、インタフェースという話で言えば、書物というものはすごく高度に洗練されたインタフェースです。書物に蓄積された知の連鎖を再帰的に取り込んでいくためのインターフェースとして、目次や索引、奥付やノンブルといったフォーマットが採用されてきました。その書物がたくさん並んでいるのが図書館ですが、図書館のなかにも情報をいかに整理して提供するうえで、書物の分類体系や開架式書棚という「インタフェース」がつくられてきた。また、今日の「ソーシャル」という言葉のニュアンスとは異なるかもしれませんが、図書館がはじまった当時は「ソーシャル・ライブラリー」と言われていた時期もありますし、ベンジャミン・フランクリンが、市民同志が情報を共有し合うためのジュントーという会合に集まった会員たちと、図書館をフィラデルフィアでつくったときにも、基本的には個人の蔵書を持ち寄るかたちで図書館が立ち上がっています。そもそも図書館というもののなかにはソーシャルな側面や、個の関心の傾きを持ち込むということがまったく含まれていないわけではなかったのだと思う。氏原:たしかにそのとおりだと思います。アメリカの図書館のあり方は、シティズンシップの次元からして日本とは違うわけですが、国立国会図書館の話に展開していくならば、日本で流通しているすべての知をあつめてしまおうという国家のアーカイブなわけですよね。そこにソーシャルという個の要素は入り込みにくいのではないかと思うのですが、そこに収められた本を読んだぼくたちの知というのもあるわけで、それこそインターネット上では個人の知が流通するようになってきている。前田さんが分析しようとしている情報は、そのような断片化されたメタレベルの知だと理解しています。そこで、あえてざっくりとアイディアをお伺いしたいのですが、それら知を取り込む方策はあるのでしょうか?前田:実は、アーキビストという職業を知ったのは最近で、そのきっかけとなったのはオールミュージックガイドという音楽ガイドを創設した方がポップカルチャーのアーキビストだとWikipedia に書いたあったのです。確かに CDDB にしても、東京の地下鉄の乗り換えマップに
  • しても、個人やコミュニティが主観的な立場で運営していたものが企業公認のコンテンツになったり公的なものになったり、オープンになったりクローズになったりしていて、そういった例はたくさんあると思います。ちょっと難しい話しになりますが、われわれ人間はおおよそ一秒に 1100 万ビットの情報を体表から得ていますが、脳にはそのうち 50〜70 ビットほどしか到達しません。また意識に到達するのに現実から 0.5 秒も遅れているというのです。何が言いたいかと言うと、ぱっと見わかるコンテクストというのは、意識に到達する前に反射的に解釈している可能性が高くて、そういった文字にしにくい情報でも、誰でも共有出来るメタデータがあって、誰でも付与したりすることが出来ます。例えば、あの音楽は明らかにあのミュージシャンの影響が強いみたいなことも統計処理をして、音列の合致率を見ている訳ではありませんよね。アフォーダンスやクオリアの話しと通じていますが、人間医はそういう大量の情報の近似や差異を瞬時に分類する能力があるのですが、それを格納するデジタルなコンテナがない状況だと考えています。Wikipedia はコンテンツのアーカイブだが、今度はコンテクストのアーカイブが出てきて、俯瞰性を高めようとして、コンテクストはいつのまにかコンテンツになるという繰り返しがなされるだろうと思っています。上崎:俯瞰したいという欲求と、もっと解像度がほしいとか細部の情報がほしいといった欲求は両立し得ないものだと思います。ところで、あえてアーカイブと図書館を同一視して言えば、 「編集」が進んでいくと、アーカイブも図書館も、むしろどんどん「あれもない、これもない」といった状態になると思う。この段階に入ったとき、「これがある」という情報だけではなく、「これがない」という情報をも伝達可能なリストが提示できるかどうかが、コレクションとしての図書館と、アーカイブとしての図書館とを隔てるのではないかと思います。そしてこの隔たりは、コンテナー設計のレベルで議論されるべき問題だと思います。質問者:図書館はプレーンなものであるように振る舞うが、実際のところはそうではなく、傾いていると思います。分類という行為自体がものすごい編集行為の産物といえますし、レファレンスという行為も情報の取捨選択です。そういった抽象的なレベルでの編集というものは今後どうなっていくと思いますか。前田:図書館や歴史と言うのは普遍性を追求するもので、学問的には客観的事実を追求するのが本質です。しかしながら、本当の中立とか客観性などは存在しないのは自明の事です。要は、姿勢
  • の問題なのです。私は自称フューチャリストでありながら、歴史が大好きなのは、普遍性や真理を追究すればおのずとバラバラに見えていた事象がつながり始め、視界が過去や未来に広がります。これは個別の体験でありながら、世界と自分のつながりの発見であり、使命とも言えます。その使命に沿って仕事をすれば、結果的に普遍性につながっていくと考えています。ここにいる方々が図書館員になったのも運命で、その運命の中でいろんな葛藤があるかと思いますが、ちょっとした行為や一瞬の体験が多くの人の人生を変えてしまう仕事でもある訳です。こっちとあっちの本の場所を右にするとか左にするとかそういうだけで歴史を変える可能性があるのです。そして、そういうことに関わっている職業とか、人生であるという意識が空間やデータベースの構造にも影響を与えるのです。そういう意味では、その時代の人間の生き様とレファレンスは深く関係するでしょう。私が期待するのは、紙の書籍が危機にあると言われる今こそ、書籍の自明性を表現する図書館をつくるチャンスもあるのだと考えています。古賀:執筆や編集という行為に利益や価値を与えるためのバックグラウンドには契約書だったり、著作権法だったり、言語によって記述された制度があります。しかし、主にオンラインコミュニティにおいて集合的なかたちでユーザの編集的な知をあつめていくときには、ブログでもtwitter でも、現状ではその作業は無償の行為として提供されることが大半です。個々のそれらの知的活動が価値としてトレースされて、ミクロな単位でペイされる仕組みはプログラムの実装も法的整備も十分になされておらず、そこが鍵となるのではないかと思います。編集的な営みが単に無償の行為として片づけられてしまうままでは、知識を再編成するリテラシーを持つこと以前に、余暇時間を十分に持っている人々から提供される断片化された知識の寄せ集めになるでしょう。上崎:編集のプロセスで何を選んだのか、何を捨てたのかという、選択=淘汰(selection)の経緯を記録できるかどうか——採用されたものだけでなく、採用されなかったものがリストの上で表現されるかどうかに、アーカイブにおける「編集」作業の未来がかかっていると思います。また、再編集を可能にするための軌道修正の余地が、どのようなかたちで残されているのかということも重要だと思います。福林:ありがとうございます。ようやくおもしろくなってきましたが、ここまでとします。これまでの話で皆さんについた「かすり傷」のようなものを、どのように受け止めて、今後に生かしていくかは各自が考えていくべきだと思います。